岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

地域開発事業

倉安川の開鑿と上道郡倉田新田の開発
大用水の開鑿を伴った邑久郡幸島新田の開発
三番用水などの開鑿を伴った上道郡沖新田の開発
田原井堰の築造を伴った磐梨郡の田原用水、和気郡の益原用水の開鑿
竹田・中島の荒手の築造を伴った上道郡百間川のなどの築造

文化事業

代表的大名庭園後楽園の築庭
藩主池田家の墓所である護国山曹源寺(正覚谷墓所は国指定史蹟)
閑谷学校(国指定史蹟)の講堂(国宝)・聖堂(国指定重要文化財)・芳烈祀(国指定重要文化財)・石塀・鶴鳴門(国指定重要文化財)など
備前一宮吉備津彦神社

池田家墓所附津田永忠墓



池田光政は、なぜ和意谷のような深山幽谷の地に儒教様式の墓所を築くことを思い立ったのでしょうか。
しかもそれまでの仏教様式を棄てての儒教様式の墓所造営です。当時としては相当思い切った決断であったと思われます。譜代の重臣や綱政もこぞって批判抵抗したと伝えられています。そうした藩内の批判や抵抗を受けながらも儒教様式の墓所の造営を押し切ったわけですから、光政にはよほど強い考えがあったものと思われます。


新しい墓所造営の最大の理由は、寛文4年(1664)、池田家の菩提寺である京都妙心寺塔中護国院の火事での焼失でした。寺を再興する話もあったようですが、なにしろ京都は戦乱の度に焼き尽くされる物騒な都会です。織田信長のように、石仏や墓などに価値を認めず、破壊し尽すことに執念を燃やす暴力的な権力者がいつ現れるともしれません。先祖の墓を末永く供養するにふさわしい土地とは決して言えません。

このことに不安を感じた光政が、中国の古典などに範を求めながら百年、二百年、あるいは千年と永く墓を守り続けるにはどうしたら良いか。考えに考えぬいた上での決断が、人知れぬ深山幽谷の地・敦土山(あづちやま)への墓所の造営ではなかったでしょうか。儒式の墓所を造ろうと思いたったのは、当時光政が信奉していた儒教の影響が大きかったものと思われます。

儒教のなかでも、入門書ともいうべき『孝経』の冒頭に

先王の至徳(しとく)の要道あり、もって天下を順(したがわし)む。
民用(もち)いて和睦し、上下怨み無し。汝これを知るかと。


それ孝(孝行:もちろ両親や先祖への)は徳の本(もと)なり。
教(おしえ)のよって生ずるところなり。
身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く。
敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。
身を立て道を行い、名を後世に揚げ、もって父母を顕わすは孝の終りなり。

それ孝は親に事(つか)うるに始まり、君に事うるに中にし、身を立つるに終る。

という一節があります。
岡山藩学校でも閑谷学問所でも手習所でも、『論語』とともに子どもたちにまず最初に誦読させたのがこの『孝経』でした。『孝経』の教えるところは、自分の身体はもちろん皮膚や髪の毛の一本一本にいたるまで分かち与えてくれた両親や祖先を敬い、孝行することの大切さです。それは東アジアの悠久の稲作文化のなかから自然に生まれた人々の生活の原理であり、孔子や孟子の説く「儒教」の根本原理でもありました。

(光政の書き写した『四書・大学』の一節)

光政は参勤交代の途上、その教えを請うため、近江の中江藤樹(1608〜1648)にしばしば面会し、藤樹の説く儒教の要諦を直接に学んでいたようです。藤樹の代表的な著作『翁問答』(1640)は、この『孝経』の教えをやさしく説いたものです。光政は、一つにはこの『孝経』の教えるところを自ら率先垂範し、家臣や領民の模範たろうとしたのではないかと思われます。その最初の事業、セレモニーが儒式による領内への両親や祖父の墓所の造営と儒礼による毎年の墓祭(永忠は、これを毎年忠実に実施しています)の実施ではなかったかと思われます。

先例が無いわけではありませんでした。
やはり儒教を国学とし、光政以上に信奉していた徳川水戸家の第二代藩主・光圀(1628〜1701)です。光圀は、初代藩主頼房が亡くなった寛文元年(1661)に、水戸から40キロメートルほども北の常陸太田市にある瑞龍山という所に儒式の墓所を築いています。光政は、この水戸家の儒式墓所造営の話を聞き、影響されたのかも知れません。

しかし、熊沢蕃山(=儒教)への強いアレルギーを抱く重臣たちに、そんな光政の気持ちはなかなか理解されなかったのでしょう。そこで、いまだ若く心もとなくはあるけれど、日頃身近に光政に接しその学問や考えをよく理解する津田永忠(当時は重二郎、24、5歳の頃)に任せてみよう、おそらくそんな風に考え墓所の選定と造営の大役を永忠に命じたのではなかったでしょうか。永忠が墓所の巡見を命じられたのは寛文5年(1665)2月、永忠にとっては初めての大仕事でした。

翌寛文6年(1666)10月、永忠を道案内に、光政は永忠の見立てた木谷・脇谷の二つの候補地を見分に訪れます。片上港から最初に案内された木谷村で、この地は「山水清閑にして読書講学の適地なり、ゆくゆくは学校に仰せ付けるべし」として、さらに奥深く分け入った脇谷の山を墓所に選んだことは、閑谷学問所のところでふれました。

しかし当時の岡山に、儒式の墓を手がけた経験のある者などいようはずもありません。そこで光政は、そうした経験も持っていたであろう、また当代きっての石塔細工師として評価の高かった河内屋治兵衛を大阪から岡山に招聘するよう永忠に命じたようです。



ちなみに、和意谷墓所の「一のお山」にある光政の祖父池田輝政(1565〜1613、播磨52万石、姫路城の城主)の墓は、儒教の守り神とされる「亀跌」という亀の胴に龍の首を持つ架空の生き物を形どった台座の上に乗っています。岡山にももちろんすぐれた石塔石工はいたのでしょうが、しかし亀跌を彫れと言われても、亀跌がどのような姿形をしたものなのか知らなければ彫りようがありません。

その点、治兵衛の住む大阪はあらゆる情報と人材の揃う大都会です。治兵衛がそのような知識や経験を持っていたとしても不思議ではありません。光政の池田家と大阪の関係は意外に深く、元和期の大阪城修築の際にも、当時、鳥取に在城していた光政は摂津の御影で石を切り出し大阪に運ばせています。また、光政の祖父輝政と曾祖父信輝は、天正年間の一時期、摂津と大阪に在城していました。当時から摂津・河内・泉州の人々との交流も深かったようです。そんな関係もあって光政は、永忠を大阪に上らせ、治兵衛を岡山に呼び寄せたのではないかと思われます。
余談になりますが、もしかしたら治兵衛の祖先は、東大寺再建の勧進・僧重源が中国から招来した石工であったかもしれません。ちなみに墓はすべて、古代中国の周尺(一尺が和尺の六寸五分から七寸五分、19.5〜22.5センチメートル。和意谷では六寸五分が採用されています)にもとづいて作られています。



そんな河内屋治兵衛と永忠の見事な仕事ぶりは、実物に接してみるとよく分かります。選りすぐりの石材、技の凄さ、なによりも手間ひまかけた丹念な仕事ぶりに驚かされます。おそらく、光政の期待した以上の見事な仕上がりだったでしょう。

石の切り出しや船による輸送、山への引き上げ、設置などのノウハウは、数々の天下普請や姫路城の築城で岡山藩にも優れた技能と経験を持つ者がたくさんいたはずです。それは主に足軽や鉄砲衆、黒鍬といわれる下級武士たちの仕事でした。記録(「御改葬記」)には「石切棟梁は若原監物預かりの仁左衛門と瀧川縫殿助預かりの七兵衛、石切は鉄砲の衆」とあります。また寛文7年2月に任命された大工棟梁のなかに「犬島にて荒石切取玉垣共下肝煎 岡山出石町次兵衛」の名が見えます。河内屋治兵衛は、岡山に来た当初、出石町に居住していたようです。

いずれにせよ藩内の、とりわけ重臣たちの気持ちのよい支援や協力の期待できなかったなかでの造営です。河内屋治兵衛とその配下の職能集団を大阪から呼び寄せた背景には、そんな事情もあったのではないでしょうか。後年、治兵衛は犬島で、もともとのお抱え石工から石の寸法のとりようをめぐって因縁をつけられ、それを発端としたトラブルに巻き込まれています。

墓所の造営に要した工事費は銀208貫目、延べ11万人余の動員をしてでの大工事でした。ちなみに日光東照宮の造営に要した工事費は57万両です。当時、銀一貫目が20両ほどでしょうか。和意谷の工事費は、日光東照宮の1パーセントにも満たない額ではあります。
和意谷墓所には一から七までのお山(墓所、一説には八のお山まである)があり、一のお山には輝政、二のお山には利隆、三のお山には光政夫妻が眠っています。光政は、永忠に「脇谷」を「和意谷敦土(あづち)山」と書くよう命じています。その改名にどんな想いがこめられていたのでしょうか、興味が尽きません。