倉安川吉井水門

倉安川は、吉井川と旭川を繋ぐ水運と干拓新田への灌漑を目的に開鑿された人工水路です。
吉井川起点に残る吉井水門は、備前積みの石垣で固められた水路に二つの水門と楕円形の船廻しをともなう、国内では類を見ない構造となっています。その独創的な設計と高度な建造技術には目を見張るものがあります。
現存するこの種の形状の水門としては国内(あるいは世界)最古のものとされており、運河閘門ではないかといわれています。

運河式閘門とは

閘門(こうもん)とは耳慣れない言葉ですが、『広辞苑』を引いてみると「 (1) 運河・放水路などにおいて水面を一定にするための水量調節用の堰。(2) 船舶を高低の差の大きな水面に昇降させる装置。船を入れる閘室(こうしつ)があり、閘室の前後に開閉し得る扉を有し、一方を開いて水とともに(船を)閘室内に入れた後、扉を閉じて船を他方の水位と同位に置いて運航させる。【運河閘門】閘門を有する運河」とあります。

いろいろ調べてみると閘門の歴史は意外に古く、中国の史書には既に唐代(西暦825年)には船閘として機能した斗(阝に斗)門の名が見えます。あるいはもっと古く秦始皇帝時代か前漢時代にまで遡るのかもしれません。またこうした灌漑用水路と船運を兼ねた運河開鑿の歴史はさらに古く、春秋戦国時代(紀元前771〜)頃には始まり、随の煬帝(569〜618)が北は幽燕に通じ、南は余杭(黄河から揚子江)に達する総延長2千500キロメートルにもおよぶ大運河を開いたのは、いまから1400年ほど前の西暦610年のことです。ちなみに倉安川は、吉井川の吉井から旭川の平井(網浜)まで延長20キロメートルほどの運河・灌漑用水路です。

閘門とは、要するにパナマ運河と同様の構造の、水位の異なる二つの運河をつなぐ一対の水門のことを言うようですが、鉄製や石造製の一枚水門も閘門と呼ぶことがあるようです。もしかしたらこれは、元あった運河閘門の名称をただ単に継承しているだけなのかもしれません。ただ残念なことに、吉井水門を閘門と表現した古い記録や古図はいまのところ見つかっていません。

確かに倉安川の吉井水門は、吉井川側と倉安川側に二つの水門があり、その間には《高瀬廻し》と呼ばれる楕円形の舟溜りがあります。丹念にいくつかの古図を調べてみますと、他にも閘門状の水門のあることが分かります。しかし多くは方形の船溜まりで、吉井水門のような楕円形の船溜りを持つ例はきわめて稀です。
吉井水門の楕円形の舟溜りの一方の側には階段があり、その上には番所屋敷がいまも残っています。舟溜りは、積荷の検問や通行税の徴収、舟の退避場所であったようです。

この水門が、たとえばパナマ運河のような閘門としての機能を持っていたとすれば、次のような状況になるのでしょうか。先ず、水位の高い吉井川から舟を舟溜りに入れ、吉井川側の水門を閉めます。この時もちろん倉安川の水門は閉まっています。その後、倉安川側の水門を徐々に開け水位を調整した後、舟を倉安川に出します。もちろんその逆もあったでしょう。

上の航空写真や下の石垣の写真を見てもお分かりいただけるように、吉井水門は吉井川右岸に突き出た岩山の端(はな)の裾、少々の洪水にも耐えられそうな地盤の堅く安定した場所を選んで設置されています。また水門両側の切り石を丹念に積み上げた石垣護岸や、花崗岩の巨石に樋板を落とすためのホゾ溝をくりぬいた水門石柱などは、「末代まで廃れざる」ものづくりに徹した津田永忠と河内屋次兵衛たちの仕事と一見して分かる特徴をよく見せています。
幾多の洪水に見舞われ補修も重ねられてきたのでしょう。特に吉井川側の一の水門の石垣には悪戦苦闘の様子がありありと窺えます。しかし全体としては、築造当初の形状や石積みをよく遺しているようです。

岡山大学大学院教授の馬場俊介先生から、「実はこの閘門こそは、現存するものとしては日本で最古・最大規模のきわめて歴史的・文化的価値の高い、国宝級の土木構造物である」という話を聞かされた時は半信半疑でした。

倉安川開鑿と大規模新田開発の背景

この倉安川吉井水門の着工は延宝7年(1679)の2月、完成は同年の8月です。

児島湾北岸沿いの干拓新田の開発は、池田光政の早い頃からの念願であったようです。その水際立った窮民対策ぶりで、岡山藩を一躍有名にした承応3年(1654)の大洪水の後の明暦3年(1657)8月、光政は旭川河口平井沖の高島前から吉井川河口の金岡まで、さらには中川前(後の倉田新田・沖新田)や邑久郡(後の幸島新田)の新田開発が可能かどうか調査するよう石方役人の熊谷源太兵衛や、後に児島郡奉行となり児島郡に多数の溜池を築いた石川善右衛門等に命じています。熊谷・石川等はさっそく現地を見分し、中川前の新田と邑久郡の新田を絵図にしたため光政に見せたようです。しかし光政はこの絵図を見て「まず水の事、積もるべし」と感想を述べ、 新田干拓になにより大切な水源確保の目算が立たなかったのか、その時は「無理だ」と判断したようです。
永忠は、このときいまだ18歳、光政の児小姓として間近に控えていたはずです。

鳥取から岡山への移封、そして承応の大洪水で多額の借金を背負い慢性的な赤字体質に陥っている藩経済の建て直しと、農民の暮らしの窮状を救うにはどうしても新田の開発が必要です。しかし、こうした古田の沖合に広がる海岸付き洲(干潟)の開発は、余排水の問題から「古田に障りがある」として熊沢蕃山は一貫して反対の姿勢をとっていました。その後岡山藩は、備前領内において上道郡金岡新田(1660年、230町歩)、同松崎新田(1663年、107町歩)、和気郡友延新田(1671年、上井田の地割9町余が完成)を開発していますが、この程度の新田開発ではとても足りるものではありません。

こうした岡山藩の窮状に追い打ちをかけるように、光政が引退した翌年の延宝元年(1673)5月、岡山藩はまたも大洪水に見舞われます(じつは、その前年も大きな洪水に見舞われています)。領内の被害はよほど甚大なものであったようで、復旧もままならないまま、翌延宝2年にも洪水に見舞われ、収穫高は激減、洪水による相次ぐ大凶作で領内には餓死者がそれこそいたるところに転がっているといった惨憺たる状況に陥っています(「上道郡奉行・春田十兵衛文書」)。

永忠の窮民救済事業と行財政改革

さすがにこれを見かねた永忠は、延宝3年(1675)正月、仕置家老の日置猪右衛門に、「いま閑谷に蟄居している自分としては誠に差し出がましいことではあるが、自らの所管する手習所を一時閉鎖し、手習所用の米を粥をにし少しでも飢えた人々に与えたい。ついては手習所を施粥所にすることを許可していただきたい」と、申し出ます。この建策はもちろん即座に受け入れられ、永忠は各郡に置かれた手習所でただちに粥の炊き出しを実施、120日間で延べ60万4千380人もの飢えた人々に粥を与えつづけるといった救済事業を実施しています。

これを契機として永忠は再び表舞台に登場するようになります。綱政の命により、慢性的な赤字体質に陥っていた藩財政の再建、藩士の借財整理に関わる見積り書「自分勝手作廻積目録」と「自分勝手簡略積」を提出、さっそく永忠流の行財政改革の実施に移っています。しかしこれはあくまでも、冗費の節減と厳しい支出の削減を基本とした超緊縮型の財政改革案にしかすぎません。これでは抜本的な藩財政の建て直しや、狭い田畑の耕作と重税、借金苦に悩む農民の暮らしの再建などとても図れないでしょう。藩士や領民の気持は萎縮し、ますます泥沼に落ち込むようなもので、こうした財政再建策のみでは未来への展望など永遠に描けるものではありません。節約できるものは厳しく節約し、その一方で地域や農民に夢を与える経済振興策がともなわなければ片手落ちというものでしょう。

そこで永忠が照準を定めたのが、ちょうど20年前、かつて光政が検討を命じていた児島湾北岸に広がる広大な付洲(干潟)を干拓し新田開発するといった大規模プロジェクトです。水源の確保と古田の障りとなる余水の排水が難しく熊沢蕃山も反対していたプロジェクトではありますが、おそらく永忠は藩経営の建て直しと農民の救済にはこれ以外に無いと考えたのでしょう。さんざんに知恵を絞って考え出したアイデアが、吉井川と旭川を結ぶ運河・灌漑用水路と吉井川左岸の幹線灌漑用水路の開鑿と、これらを水源とした3千町歩(ヘクタール)にもおよぶ広大な沖合新田の干拓開発事業です。

不可能を可能に

永忠は、延宝6年(1678)3月、綱政から服部与三右衛門とともに領内巡見を命じられています。おそらくこの時に、吉井川右岸の吉井を含めて実地に各所を見てまわり、あたためていた構想に確信を得たのでしょう。それをさっそくより具体化した構想図、構想書として綱政に進言したようです。その年の9月、綱政から「春に進言した藩内の新田候補地の見立については、来春より郡奉行と相談して取立てるよう、また、新田開発に必要な経費は経費節減の折であるから永忠所管の社倉米を財源とするよう」命じられています。
翌延宝7年(1679)正月、永忠は上道郡倉田新田(300町歩)と倉安川用水の構想絵図を描き、江戸に上り、綱政から着工の許可を得ています。

そして担当役を定め、2月には、吉井水門から10キロメートルほど西、操山の沖合いに広がる付き洲に長大な塩止め堤を築く工事に着手しています。あわせてその300町歩にも及ぶ広大な干拓新田の灌漑用水路として、これまで誰も想像だにしなかった吉井川からの取水と、また吉井川と旭川を結ぶ運河としての役割を担う総延長20キロメートルほどの倉安川用水の開鑿に着手しています。ただ倉安川用水は、すべてを新たに開鑿したのではなく、大部分は既存の小河川や用水、氾濫原にのこる低湿地や沼等を利用したようです。

それにしても、いったい当時の施工体制がどのようなものであったのか不思議でならないのですが、これほどの大工事(用水の開鑿と新田干拓と吉井水門や数々の樋門・底樋・掛樋などの設置)を永忠たちは僅か半年ほどの期間で完成させています。
そして10月19日には、江戸から帰国途中の前藩主池田光政がわざわざ吉井川対岸の坂根から舟に乗り換え、この吉井水門をくぐりお城まで帰っています。この事業が岡山藩にとって、あるい池田光政や津田永忠たちにとってどれほど重要な意味を持つ特別な事業であったか、分かるような話ではありませんか。

残念ながら記録を見るかぎり、この水門が閘門的な使われ方をされたかどうか定かではありませんが、以下は閘門として使われたと想定しての物語です。

3百町歩にもおよぶ藩営倉田新田の干拓と倉安用水の開鑿、そして一連の工事の総仕上げとしての倉安川吉井閘門の完成です。永忠としてはぜがひでも倉安川に舟を浮かべ、光政に直接その出来栄えを見てほしかったのかもしれません。
水門は、光政たちの舟を通すに十分な高さと幅をもって設計されています。ちなみに当時の水運の中核を担った高瀬舟は長さ50尺(15m)、幅7尺 (2.1m)もありました。円形の閘室(高瀬回し)に船が入ると、吉井川側の水門が閉じられます。しばらくして今度は倉安用水側の水門板が引き上げられ、 閘室内の水は渦をまいて倉安川に流れ下ります。もやった舟も大きく揺れ、やがて水位は用水側の水位と同じ高さに落ち着き、水面は何事もなかったかのように一定します。

光政たちの一行は、閘室内の外縁に沿って設けられた階段を上り、いまでも屋敷が残っていますが、舟番所からこの様子を眺めていたのかもしれません。二つの水門の間で繰り広げられる光景の一部始終を目の当たりにした光政たちは、おそらく感嘆の声を発し、永忠たちの考案した仕掛けに目を見張ったことでしょう。
永忠もまた、敬愛する光政に見てもらいたい一心で、万全の体制で晴れの日に備えたはずです。

この閘門がいかに入念かつ堅牢に造られたか、完成から今日まで、330余年の間にはいくども大きな洪水や地震に遭遇したはずです。しかし閘室の石垣や水門の主要な構造には微塵の揺るぎもありません。原形をほぼ完全にとどめています。しかも、これら一連の大工事を永忠たちは、わずか半年ほどの間に成し遂げているのです。その施工能力の高さはほとんど驚異です。繰り返しになりますが、施工にあたっての組織や体制はどのようなものであったのでしょうか(後ほど沖新田の大水尾のところでご紹介させていただきます)。

しかしそれにしても、いったいこうした知識をどこから入手したのでしょうか。それとも永忠たちの独創だったのでしょうか。だとすれば、凄いことです。実際、後でご紹介しますが他藩のお手本となるほどの偉業だったのです。

河内屋治兵衛のもたらした革新技術

もう一つ、この大事業の成功を語る上で忘れてはならない革新的な技術についてご紹介しなければなりません。
倉安川の開鑿と倉田新田の開発に着手する少し前、延宝4年(1676)頃のことですが、どういう経緯からはわかりませんが、和意谷墓所築造にあたって大阪から呼んできた石塔石工の河内屋治兵衛が、御野郡福田村と和気郡東片上村に石の樋を築き、百姓たちのたいへんな評判を得ることになります。いずれも潮止めと干拓新田の余水を海に吐かすための石造樋門であったろうと思われますが、従来、この種の水門はほとんど木造でした。木材は土中に埋まっている部分はほとんど腐らず長持ちするのですが、海水や雨風にさらされる部分は腐朽が激しく維持管理が難しいといった難点があります。大きな水圧のかかる水門などの部材の耐久性はことに悪かったのでしょう。中国の古書にも数年置きに作り替える必要のあることが記されています。

ところが河内屋治兵衛たちの築いた石樋(石造水門)は、木製水門に比べると狂いもなく耐久性が飛躍的に向上し、しかも建造にあたってのコストが木造とほとんど変わらないという優れものであったようです。百姓たちが騒ぐわけです。余談ですが、国の重要文化財となっている埼玉県の見沼通船堀は、木造の閘門水門を最近復元したものですが、すでに部材の一部に腐れを生じています。一見して、木造水門の維持の難しさが分かります。

その点、石は腐りません。特に硬質な花崗岩の耐久性はほとんど半永久的であるといっても過言ではありません。ただ、木材に比べるとはるかに重く堅いですから、加工や輸送、施工上の難しさは木造水門の比ではありません。幸い岡山は、良質な花崗岩の産地です。優秀な石塔石工であった河内屋治兵衛にしてみれば、ほとんど余技のつもりで造ったのかもしれませんが、実はこのとき彼の築いた石造水門こそが、その後の永忠たちの幹線用水開鑿や大規模干拓新田開発など、一連の岡山藩の開発プロジェクトの基盤技術となったのではないかと、津田永忠研究の第一人者である柴田一先生は推測していらっしゃいます。

前述のように、日本では、埼玉県さいたま市の見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)がわが国最古の閘門として国の史跡に指定されています。しかし、この見沼通船堀の完成は、倉安川吉井閘門の完成から遅れること52年も後の享保16年(1731)のことです。しかも水門の構造は木造だといいます。

一方、津田永忠の吉井水門は昭和34年(1959)、岡山県指定史跡に指定されてこそいるものの、昭和48年、国の坂根堰の改修の際には危うく潰されそうになりました。津田永忠顕彰会でも二度ほど、この水門の見学会を開催したことがあります。しかし、お恥ずかしい話ですが、正直、それほどの重要史跡であるとの認識は持ち合わせていませんでした。
現状も、吉井川右岸の県道工事で、倉安用水側はともかく吉井川側の水門の前には閘室を県道が横断しておりお世辞にもその保存状態は褒められるような状況ではありません。というよりも岡山の文化度が問われそうな状況です。

既に国の史跡に指定されている見沼通船堀がさいたま市民の誇りとして大切に維持保存され、実際に当時の船を復元して通船実験が行われたり、閘門施設を含めた一帯が公園整備されているのとはたいへんな違いです。

ちなみに、倉敷市(旧船穂町)の高梁川右岸にも、形態こそ違いますが倉安川吉井閘門と同じ延宝年間に備中松山藩の水谷氏によって築造された石造水門の「一の口水門」があり、その下流300mの所に「二の水門」の遺構が現存しています。地元の伝承によると、かつては高瀬舟が頻繁に行き来する閘門式の運河であったようですが、鉄道の開業にともなう高瀬舟の衰退により利用されなくなったようです。

船穂一の口水門と高瀬通し
(現地立て看板説明文の引用です)

船穂・長尾・玉島一帯の干拓新田一千余町歩が、松山藩主池田氏及び水谷氏三代により造成されて以来用水の取水取門として重要な役目を果たしてきた。
また、この水門より玉島港に至る約十キロメートルの水路は、高瀬舟が運航され、通称「高瀬通し」といわれた。水谷氏はここより三百メートル下流に二の水門 を設けて閘門式運河としたが、これはパナマ運河より、実に二百数十年前のことであり、閘門式としては我が国最古に属する。大正十四年高梁川改修工事の完成 により一ノ口水門は東岸酒津分よりサイフォン方式の、用水取り入れ口に改造されるまで、約二百余年の間、用水路・運河の閘門として活用されたもので、先人 の功績を物語る重要な記念物である。

倉安川(吉井水門)と高瀬通し
(吉井水門保存会徳田会長の説明文を引用)

17世紀後半の寛文〜元禄年間(1661〜1703)にかけての児島湾北岸の大規模な干拓事業は、藩主池田光政の積極的な新田開発政策に基づいて郡代津田永忠に命じて実施された。松崎・金岡新田(以上、現岡山市)に続いて延宝7年(1679)には倉田新田の開発に着手した。
この時、上道郡吉井村(現岡山市)から同郡平井村(現岡山市)に至る「新堀川(倉安川)」が作られた。通過地に因んで名前がつけられた倉安川は新開地の用水路であると同時に、吉井川と旭川を連絡する通船可能な運河の機能を併せもつものであった。従来、吉井川筋から岡山城下へは児島湾を廻航していたが、一連の児島湾北岸の新田開発により、その廻航距離が長くなっていった。そこで新田開発事業に付随して運河の建設が課題となったのである。吉井—一日市—竹原—富崎—松崎—福泊—円山—湊の各村を経由して平井村(以上、現岡山市)までの約20キロメートル、幅員4〜7メートルの倉安川開鑿は、既存の用水路を最大限に利用して連結・貫通したもので、同年8月に竣工した。
花崗岩で堅個に構築された吉井水門は、全国一の規模で今も完全に保存された貴重な遺跡である。その構造は、二重に水門を設け、「高瀬廻し」といわれ船だまりで吉井川と運河内の水位を調節する(閘門式)という先進的技術を導入したもので、当時の土木技術の高さを示している。
記録に寄ると、竣工直後の10月19日に、池田光政は江戸からの帰途、はじめて倉安川を通行して帰城、以後同月20日から一般の高瀬舟の通行が許可された。同年の「御留帳評定書」(池田家文庫)には、「一、新川通り舟、十月二十一日より十二月十日迄、九百九十四艘」と記され、開通直後の50日間で約1000艘という通船量にのぼり、その数字が運河開鑿の意義を如実に物語っている。
この倉安川通行に際しては、通行税として高瀬舟一艘につき運上銀2匁を上納したが、当時の赤坂郡周匝村(現吉井町)から城下までの運賃の試算をみても、児島湾廻航の場合と比較して、なおかつ銀2匁5分安くなっている。運河開鑿のもたらした城下への距離の短縮と高瀬舟運賃の低廉化は、特に和気・磐梨・上道郡内の岡山藩領の村々にとっては、年貢米や薪・炭をはじめとする物資輸送を容易にするもので、その歴史的意義は大きく、昭和34年3月27日岡山県の史跡に指定される(保存管理は吉井水門保存会)。

見沼通船堀の運河閘門

見沼通船堀は八代将軍吉宗の命を受け、幕府勘定吟味役・井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船堀は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。
東縁路が約390メートル、西縁路が約654メートルありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3メートルもあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関の間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特長となっており、技術的にも高く評価されています。
通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達とともにしだいに使われなくなっていきました。

見沼通船に使われた船は「ひらたぶね」と呼ばれる底の平らな長さ11メートル、幅2メートル程のもので約60キログラムの米俵100から150俵積みの小型船でした。江戸からきた船が八丁河岸に着くと船頭は、近所の人に声をかけ人々を集めます。およそ20人位の人々が土手から綱を引いて一の関まできます。一の関では水門から勢いよく流れ出る水の上を一気に引き上げます。このとき二の関は水位を保つために閉められています。船が一の関の中に入ると「枠抜き」の人が角落板を一枚ずつ積み上げます。板を10枚近く積み上げると水位は二の関の敷板の高さまで上がり二の関まで船はひかれ、一の関と同様に船は引き上げられ、水位が上がると船は代用水まで引かれ通船は終わります。
代用水から芝川へ船が下がるときは、この逆の手順で行い、関に積み上げられた角落板が一枚ずつ鈎でかけられ、はずされて、落差を少なくして関を通過させています。このように通線堀に船を通すには、大勢の人々と手慣れた船頭さんの力が必要でした。

閘門余話
遠賀川・堀川の唐戸水門

堀川は、北九州市八幡西区楠橋の遠賀川から中間市と遠賀郡水巻町を経由し洞海湾に至る、江戸時代に開削された全長12.1キロメートルの運河です。遠賀川は度々洪水を起こしていたため、初代福岡藩主黒田長政(長政の曾祖父、祖父のものと伝えられる墓が吉井川左岸福岡の妙興寺境内にあります)は、遠賀川に長大な堤防をも築くとともに堀川の開鑿を計画します。開鑿工事は元和7年(1621)に着工されますが、元和9年の長政の死により中断されています。

長政の死から130年後の宝暦元年(1751)、度々の洪水に悩まされた福岡藩は、堀川の開鑿工事を再開します。しかし、この工事は藩にとって未曾有の難工事となったようです。遠賀川本川より堀川への導水は、中間村中島に取入口を設け、石の唐戸(水門)を構築して通水することにしたものの、いざ通水してみると洪水の際の水圧にどうしても耐えられず、二度にわたり決壊してしまいます。

石唐戸の決壊を深刻に受け止めた福岡藩では、頭を悩ましいろいろ検討した結果、備前の国の吉井川に全国無比の石唐戸(津田永忠たちの築いた倉安川吉井水門です)が構築されていることを知ります。そこで藩は、堀川工事の役夫頭を努めていた一田久作を密かに備前に派遣します。当時は、各藩ともこの種の技術の流失に神経を尖らせ、他国人でこれを盗むものを発見した場合は生きては帰さなかったといいます。しかし久作は決死の思いで備前国に潜入し、吉井川の閘門の構造を書き取り無事帰国します。

結果、唐戸の設置場所には岩盤の強固な惣社山が選ばれ、一つの唐戸に表裏まったく同一機構の堰戸を設けた中間(なかま。地名です)唐戸を建設します。この唐戸には表裏二つの戸のほかに中戸(?)が設けられていて、表裏戸でも濁流の水勢を妨げない場合に使用するなどの工夫がこらされているといいます。この中間唐戸の成功によって、宝暦12年(1762)、堀川ははじめて開通します。
唐戸は、福岡県の重要文化財に指定されていますが現在も一部その機能を果たしているといいます。

それにしても津田永忠や河内屋治兵衛の仕事は凄いですね。真似されるようになれば本物、その仕事は全国に轟いていたようです。

● 吉井水門への交通アクセス
バス/宇野バス「吉井バス停」より北東へ約600メートル、徒歩約10分
電車/JR赤穂線「長船駅」より約4キロメートル、徒歩約1時間

岡山藩郡代 津田永忠 の事績を岡山世界遺産に