岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

地域開発事業

倉安川の開鑿と上道郡倉田新田の開発
大用水の開鑿を伴った邑久郡幸島新田の開発
三番用水などの開鑿を伴った上道郡沖新田の開発
田原井堰の築造を伴った磐梨郡の田原用水、和気郡の益原用水の開鑿
竹田・中島の荒手の築造を伴った上道郡百間川のなどの築造

文化事業

代表的大名庭園後楽園の築庭
藩主池田家の墓所である護国山曹源寺(正覚谷墓所は国指定史蹟)
閑谷学校(国指定史蹟)の講堂(国宝)・聖堂(国指定重要文化財)・芳烈祀(国指定重要文化財)・石塀・鶴鳴門(国指定重要文化財)など
備前一宮吉備津彦神社

曹源寺・正覚谷墓所


津田永忠の時代に造られたもう一つの池田家墓所、正覚谷墓所と、その菩提寺「護国山曹源寺」です。
池田家の墓所は国の史跡に指定されており、今回の登録申請遺産の一つとなっています。
建物と境内全体は岡山県指定史跡になっています。

寺伝に、 「元禄11年(1698)5月、池田綱政の創立にして寺領黒印地高200石、同年10月同郡(上道郡)山崎村にて寄付せられ、同16年(1703)9月円山村福泊(まるやまそんふくどまり)の内、田畑若干を買上げその頃の住職密山へ附与、その他山林反別若干寄付せられたり。開基は絶外和尚なり」と記されているように、後楽園をつくった藩主池田綱政(1638〜1714)の創建で、山号の「護国山」は綱政の高祖父信輝の法号「護国院殿雄丘宗英大居士」からとったものです。また寺号の「曹源寺」は、禅宗の開祖達磨大師の修養地曹渓にちなんだものだといいます。
本尊は十一面観音、臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝にあるように綱政が京都妙心寺から絶外和尚を招請し開いたと伝えられています。


境内の面積は5千259坪(約1万7千355平方メートル)。伽藍は操山を背に児島湾に南面し、南北を軸線上に松並木の参道につづいて総門・山門・本殿、そして本殿を中心に経蔵・庫裡、鼓楼・鐘楼、禅堂などがほぼ左右対称に配置されています。また本殿東には表書院、北には裏書院が配置されており、さらに表書院の東には茶室と操山を取り込んだ広さ1千500坪(5千平方メートル)ほどの林泉回遊式の禅風庭園が、また本堂裏の正覚谷には池田家の墓所、背後の山腹には三重塔や溜池が配置されています。林泉回遊式庭園は「後楽園と陰陽一対をなす」と言います。


寺伝には庭園の造作は開山の絶外和尚と津田永忠が関わったとあるそうです。しかし確証となる記録はないようです。
しかしつぶさに観察してみると、山腹の溜め池から滝への導水システム(破壊された石製樋門の石材が残っています)や元禄期の特徴をよく表している巨石をふ んだんに使った石組み等に、永忠とその配下の人たちの仕事と思える箇所が随所にうかがえます。たとえば総門を入ってすぐの放生池が閑谷学校の泮池同様方形であること、総門前の石橋や高欄などのデザインにも閑谷学校と同様の儒教的様式が見られます。



本堂、禅堂、表書院は後の時代の建築ですが、その他は創建当初からの建築です。本堂は安永9年(1780)に焼失したものを文政7年(1824)に再建したものです。桁行13間、梁間10間、重層入母屋造本瓦葺の大建築で、上層の正面に掲げられた「曹源寺」の扁額は綱政の文字です。豪壮かつ荘厳な一連の寺院建築は、備前国第一の禅院にふさわしい偉容を誇っています。

曹源寺を創建した池田綱政は、寛文年間に厳しい宗教弾圧を実施した光政の寺院淘汰で取り潰された寺院の再興にもいくつか手を貸しています。淫祠邪教を排し「儒道興国」を信念とした先代光政とは違い、仏教も神道もともに熱心に信仰しています。
そんな綱政が、元禄10年(1697)12月22日、とつぜん腹心の上坂外記を呼び、高祖父信輝と父光政の菩提を弔い、また自らの冥福を祈るべく備前池田家の菩提寺を建立することを命じます。ちょうど30年ほど以前の寛文年間、先代光政が津田永忠たちに命じて造らせた和意谷敦土山の儒教様式に基づく池田家墓所が既にあるにもかかわらずです。

建立地には、彼が藩主になってから、津田永忠によって開発された倉田新田・沖新田を眼下に眺望できる操山の山麓の円山(まるやま)村福泊(ふくどまり)が選ばれました。同月25日、綱政は、日置猪右衛門、津田永忠、上坂外記らに地形の検分を命じています。建立にあたっての一切の財源は、永忠の所管する「社倉米」からです。社倉米とは、飢民救済や領民の暮らしの経済的自立と安定を図るための開発事業や、安心安全な國づくりを目的に積み立てられた基金です。永忠が、寛文11年(1671)に光政に献策して創設された制度ですが、この頃にはその基金総額は莫大なものになっていました。

和意谷墓所を池田家墓所として末代まで護りつづけることを固く決意していた永忠の心中は、決して穏やかなものではなかったはずです。というよりもむしろ、「この君はいったい何を考えているのか」といった憤りの感情を押え難かったのではなかったでしょうか。


正覚谷墓所は池田綱政以降の岡山藩主の墓所で、墓石や巻石構造の階段側石など精巧な石造技術が駆使されています。

土木工事は翌年正月より着手されています。永忠自身は、幕府から命じられた福山検地のため、直接にはかかわっていませんが、彼が数々の開発事業で右腕と頼んでいた田坂与七郎など、配下の者が多数携わっています。完成は元禄12年(1699)の6月22日、本尊入仏供養の後、罪人63人の恩赦を行っています。恩赦の対象者は宗教犯罪者でしょうか、初めてのことですが、鹿久井島へ流罪となっています。

ついで宝永元年(1704)、綱政は曹源寺本殿背後の正覚谷に墓所を造らせます。永忠が大阪から招聘した河内屋治兵衛は既に亡くなっています(元禄11年10月19日没)が、彼の後継者や門弟の石工たちが携わったのでしょう。墓所の石垣や敷石、玉垣の加工は驚くほどに精巧です。また墓所に上る石段両側の石塁は閑谷学校同様、上部を円く巻石状に積んでいます。

綱政は、自らの寿蔵(墓)が完成すると僧侶たちに大般若経を読誦させるなか、石棺の中に座して
終にゆく やどりをここに しめ置て 世にながらふる 身こそ安けれ

という和歌を詠み、再び大赦を行ったと言います(『池田家履歴略記』)。

正徳4年(1714)10月、綱政が岡山城で死去すると、その遺体はもちろんこの寿蔵に安置され、「曹源寺殿湛然徳峰大居士」という戒名をおくられています。綱政以降、その子孫の多くはこの曹源寺の墓所に葬られています。光政の儒教への強い想いは、少なくともその子や孫たちの代には理解されなかったようですが、しかし光政のめざした儒教的仁政精神や質実剛健のその遺風は、100年、200年、300年以上の長きにわたって、藩主のみならず家臣や領民の心の奥深くに染み込み、備前の風土となって定着したようです。

余談ですが、いま曹源寺を支えているのは、世界各国から集まった三十名ほどの修行僧たちです。住職の指導のもと、ローマ字でルビのふってある『般若心経』の読経や参禅(大接心もこなします)など、日夜厳しい修行に励んでいます。こんなお寺は、おそらく日本国中探しても他にないのではないでしょうか。
もしかしたら、津田永忠と彼の志を共有する配下の技能者たちの、超一流の技と造形感覚によって造られた空間から醸し出される何かが、時空を越えて外国の修行僧たちの心をとらえて離さないのかもしれません。

この墓所を境内に含む曹源寺は、元禄10年(1697)に建立され、雄大な禅宗伽藍建築や回遊式庭園などが残っています。


曹源寺境内


正覚谷墓所の階段