旭川分流部改修を記念し「永忠堤」と命名しての説明看板設置!―百間川の荒手の新愛称が説明板に正式記載される―

(一社)岡山藩郡代 津田永忠顕彰会
会長 小嶋光信

2018年の西日本豪雨で、岡山市内の洪水を間一髪で回避できた旭川の放水路である百間川の功績は大きいものがあります。その百間川の改修を記念して、その取水口付近の岡山市中消防署の駐車場西側に説明看板が設置され、顕彰会が愛称として提案した「永忠堤」の名が掲載されました。

百間川は江戸時代の承応3(1654)年に旭川で起きた大洪水を契機に、岡山城やその城下町を洪水から守るために熊沢蕃山が考案した「川除の法」(荒手と呼ばれる堰を段階的に造って水流を弱め洪水を防ぐ治水方法)を基にして、津田永忠が3段の荒手によって水の勢いを弱めながら百間川へ分流することで旭川の氾濫を防げるよう設計し、1686年に概ね完成したものです。

江戸時代より永年、岡山市を洪水の被害から守ってきました。また、単に防災の面だけでなく、百間川の築堤・整備は日本を代表する大名庭園である後楽園の築庭や沖新田をはじめとする児島湾の大規模な干拓にも深く関わっているのです。

しかし、昭和47(1972)年7月の洪水(家屋浸水戸数約4,300戸、浸水面積3,278ha)や、平成10(1998)年10月の洪水(家屋浸水戸数約 970戸、浸水面積 389ha)を教訓に、将来の洪水被害を守るために改修が計画されていました。

岡山河川事務所さんによると「2118年の梅雨前線の影響で、旭川流域の流域平均総雨量は約324mm(7月5日(木)3:00~8日(日)22:00)を記録し、旭川放水路分流部の上流側に位置する下牧水位観測所で氾濫危険水位を超過しましたが、7月6日(金)には、分流部の「一の荒手」を越流し、洪水を放水路へ分派しました。

今回の豪雨では、旭川放水路がなかった場合に、「岡山市街地(JR岡山駅含む)の約450ha及び約5,050戸の家屋の浸水被害が発生する恐れがありましたが、洪水を分流したことによって、旭川の水位を約1.5m低下させ、洪水を安全に流下させました。」ということで、間一髪で改修が間に合って岡山市中心部は大災害から免れることができました。

もしこの津田永忠の百間川がなかったら、またこの西日本豪雨に改修が間に合わなければ大惨事になるところでした。

思えば20数年前、顕彰会を立ち上げたときに、すでにこの百間川の改修の方式をどのようにするかが議論されており、吉野川第十堰の可動堰化で世の中大騒ぎの時期でもあり、荒手などの歴史遺産として残すか、それとも災害防止で可動堰化するかの判断が迫られているナーバスな時期でした。

当時の河川事務所の幹部の方も個人的に我々の顕彰会に加わり、歴史的な勉強をされて、我々顕彰会も地元の皆さんとともにこの協議に加わったことで、一時は険悪になりそうなこの問題も永忠さんの一石二鳥、三鳥にあやかって「これも、あれも」ということで歴史的遺産の荒手も保存し、防災能力も改善するということで話が進み、可動堰ではなく荒手の修復に国が舵を切ってくれました。

地元と国などの円満な話し合いでスピーディーに工事に入れたことが、今度の西日本豪雨で岡山市中心部の洪水被害を防げたと思っています。
 
なお、「永忠堤」名称を顕彰会が提案した理由は以下の如くです。

津田永忠は、江戸時代前期(元禄時代の頃)に岡山藩主・池田光政公、綱政公の二君に仕えた岡山藩士で、現存する庶民のための学校としては世界最古といわれる閑谷学校の創設により「教育県・岡山」の礎を築き、世界のモンスーン地帯では最大の干拓といわれる1,900町歩の沖新田をはじめとする約2,500町歩に及ぶ大干拓によって「豊かな岡山」と評されることになる大事業を次々と成し遂げた「天下に比類なき土木巧者」である。

彼の没後300年以上を経た今でも、地元・岡山の人々は身近にある彼の功績を語り継ぎ、その功績に感謝し、親しみを込めて「永忠(えいちゅう)さん」と呼んでいる。

彼の事業の中でも特に、沖新田の干拓は、彼の師でもあった熊沢蕃山の反対をはじめ多くの技術上、財政上の障害を自らの才知で乗り越え、彼の卓越した知識と技術力から河口に「唐樋」と、「大水尾」という遊水地を建造することで旭川と吉井川という大河川の間に広大で豊かな農地を生み出したという功績が大きい。

この二大河川の河口付近を干拓すれば洪水の危険が大きいという難問を解決したのが百間川の整備(築堤)にあるといえる。

百間川の整備は、岡山城下を洪水の被害から守るとともに、沖新田等の干拓地の灌漑や排水機能をも兼ね備えた、一石二鳥、一石三鳥ともいえる卓越した治水・土木工事であった。

百間川は、旭川がある一定の水量になると、一の荒手を越流し、まず、大きな石などを落とし、二の荒手で中ぐらいの石などを落とし、流れを弱めながら、三の荒手で穏やかな流れへと変えて旭川の氾濫を下流へ放水させるという工夫が施され、整備されてから今日まで、国の改築も相まって洪水などの水害から地域を守っている優れものといえる。

残念なことに、三の荒手は明治25年の洪水で消失したが、一の荒手、二の荒手は地域住民の要望を国が受け止め、貴重な文化財として現存させ、現在も機能している。

今日まで脈々と続く百間川の機能は、国の的確な改修により一層の効果を発揮し、2018年7月の西日本豪雨でも岡山市内中心部などを洪水の被害から守るなど、今もなお市民とその生活を水害から守っている。

戦国時代に甲斐の守護であった武田信玄が築かせた「竜王川除場」を地元では現在でも「信玄堤」と称えているが、これを東の堤とするならば、西の堤は、岡山にあるこの優れた機能を持つ、稀なる越流堤を「永忠堤」として、これからも永く世に伝えていきたい。

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― 岡山に世界遺産が誕生 ―
倉安川・百間川等が「世界かんがい施設遺産」に!

(一社)岡山藩郡代 津田永忠顕彰会
代表理事 小嶋光信

「瓢箪から駒」と言いますが、世界文化遺産を目指していた津田永忠の土木遺産群の一部である倉安川と百間川が、「世界かんがい施設遺産」として令和元年9月4日に見事、世界遺産登録されました。

この快挙の原点は、元岡山県農林水産部長で(一財)岡山農山村地域研究所 代表理事の村上進通さんのアイデアで、昨年1月30日に来社されて倉安川を世界かんがい施設遺産に登録申請したいという提案から始まりました。

実はその時は「世界かんがい施設遺産」なるものがあるとはつゆ知らず、調べてみると世界文化遺産とは異なり、インドのデリーに本部がある国際かんがい排水委員会(ICID)が歴史的かんがい施設の理解と適切な保全に資するために認定・登録する権威のある世界遺産であることが分かりました。厳しい審査を経て登録されるのは、建設から100年以上経過し、歴史的・技術的に価値のあるかんがい施設です。

平成19年に岡山藩郡代 津田永忠顕彰会が提唱し、岡山県が「近世岡山の文化・土木遺産群-岡山藩郡代津田永忠の事績」として世界文化遺産登録を目指しましたが、当時、土木遺産が世界文化遺産という認識が国に薄く、辛うじて「閑谷学校」が世界教育遺産としてスタンバイされることになりました。

もう津田永忠の真骨頂である土木遺産の事績では世界遺産登録は無理かと思っていたところにまさに「目からウロコ」で、即座に顕彰会としてご支援・協力をお約束するとともに、倉安川と吉井水門(閘門)だけでは世界規模としてはやや小さいので、世界のモンスーン地帯では最大級となる1,900町歩という沖新田の灌漑や排水機能をも兼ね備えた、一石二鳥、一石三鳥ともいえる卓越した治水・土木工事でもある百間川も追加されてはどうかと提案して今日を迎えることになりました。

申請にあたっては農業分野の権威である千葉喬三先生を会長に、関わりのある団体方とともに「倉安川・百間川 世界かんがい施設遺産協議会」を結成し、実質的な副会長の村上さんが事務局兼よろず承り係として頑張られて勝ち得た素晴らしい成果です。申請にあたっては学術的な面でのチェックに岡山大学 名誉教授の馬場俊介先生にもお力添え頂きました。

まさに倉安川が開削されて340年の記念すべき年に、地元民の力が結集しての大きな、大きな賜物を得ました。

9月4日にインドネシアのバリ島にあるヌサドゥアコンベンションセンターでのICID第70回国際執行理事会席上にて、正式に認定登録され、レインダース会長より村上さんとご一緒に登録証等を頂いて帰ってきました。

世界かんがい遺産に登録された理由は、倉安川・百間川のかんがい排水施設群が「作物の生産性を向上させ、地域の農家の生活水準を向上させるための埋め立て地として素晴らしい例として」ということで広大な沖新田などの大干拓が評価され、また津田永忠が目指した「農民の苦しみを救う」ことが「地域の農家の生活水準を向上させた」という表現で高く評価されたことが値千金と言えるでしょう。

これから更に、津田永忠の偉業である岡山県の「閑谷学校」を世界教育遺産に、「岡山後楽園」を世界文化遺産として登録実現できるよう、その可能性を目指して再出発です。

愛称「永忠堤」と命名!

2015年1月から着手していた百間川分流部の改築事業が2019年6月に完了し、越流堤(一の荒手ほか)の愛称がその築堤を手がけた岡山藩郡代 津田永忠の名前をとって「永忠堤」(えいちゅうつつみ)と命名されました。
完成から300年を経た今もなお、岡山の城下町と流域住民を水害から守り続ける百間川を整備した天下に比類なき土木巧者・津田永忠の事績を後世に語り継ぐことを目的として、2019年6月20日、津田永忠顕彰会の小嶋代表理事から国土交通省岡山河川事務所の水戸雅文所長へ趣意書が手渡され、愛称としての提案をしました。

趣意書の詳細はこちら

世界かんがい施設遺産

登録をめざして申請中!

岡山藩郡代 津田永忠顕彰会も参加している「倉安川・百間川 世界かんがい施設遺産協議会」は、2月1日、津田永忠がその開削・築堤に大きく関わった倉安川(水路)・倉安川吉井水門(堰)・百間川(排水路)を候補施設として国際かんがい排水委員会日本国内委員会へ「世界かんがい施設遺産」申請書を提出しました(表題/「倉安川・百間川かんがい排水施設群」)。
郷土・岡山の貴重な事蹟が「世界かんがい施設遺産」として登録されるよう活動中です。

左右岸に広がる実り豊かな沖新田の中央を貫流する百間川(1968年)

「世界かんがい施設遺産」とは……
国際かんがい排水委員会(ICID)は、かんがいの歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に資することを目的として、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を登録・表彰するために、世界かんがい施設遺産制度を創設しました。
登録により、かんがい施設の持続的な活用・保全方法の蓄積、研究者・一般市民への教育機会の提供、かんがい施設の維持管理に関する意識向上に寄与するとともに、かんがい施設を核とした地域づくりに活用されることが期待されています。
(農林水産省HPより)

桜咲く「倉安川吉井水門」

百間川の唐樋が見事に復元!

岡山藩郡代 津田永忠顕彰会 会長
小嶋光信

現在の「豊かな岡山」、「教育県・岡山」の基礎をつくったのは、江戸時代前期の岡山藩主・池田光政公、綱政公の二君に仕えた岡山藩士・津田永忠の偉業の一つである約1,900町歩の沖新田干拓と閑谷学校であると言われている。

当時天下に並ぶものなき「土木巧者」でもあった郡代の津田永忠は、領民に夢を与えるために、敢えて当時の技術では無理であると言われていた旭川と吉井川に挟まれた地域の新田開発を百間川の開削と百間川の河口部に造った唐樋(からひ:高度な排水機構)によって実現し、世界のモンスーン地帯では最大の沖新田干拓を成功させた。

治水学の大家でもある陽明学者・熊沢蕃山が、「大きな河川に挟まれた地域の干拓は、大洪水を引き起こす禁じ手」と大反対をしたのを押しのけて、当時の最先端の唐樋の技術をもって可能とした。蕃山が反対した理由は、満潮時に山から下りてくる大水が満潮(海水)により行く手を塞がれて洪水が起こるためなのだが、唐樋を閉めてその大水を河口に造った貯水池・大水尾(おおみお)に溜めて干潮時に排水することで大洪水を防いだ。

近年、新しい可動堰(せき)が造られた時に壊されたが、当時の河川技術者がこれだけの土木遺産を壊すのは忍びないということで、綺麗に解体して河口の底に沈めて保管してあった。

この度、岡山河川事務所のご厚意で、百間川河口水門の増築記念として唐樋の一部を復元していただいた。
そのご厚意に心から感謝して、顕彰会と岡山市民を代表して岡山河川事務所へ感謝状をお贈りした。

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2015.03.01

岡山藩郡代 津田永忠 の事績を岡山世界遺産に

English is here.

世界遺産暫定リストへの結果発表に対してのコメント

今回暫定リスト入りはできませんでしたが、閑谷学校が世界遺産暫定リスト入りする可能性が出てきたことを素直に喜びたいと思いますし、文化庁のご好意に感謝したいと思います。今回の暫定リストへの申請で、岡山に津田永忠という卓抜した人物と遺産群が現存することを全国に示せ、岡山の郷土の誇りとして再認識していただけたことが最大の効果です。昨年2月から申請への準備を始めて、県と3市1町がまとまり、各方面の先生方のご協力で、世界遺産の暫定リスト入りへの申請をわずか半年あまりで文化庁へ提出出来たことは素晴らしい快挙であったと思いますし、皆様方の応援の賜物だと感謝しています。今後、暫定リスト入り出来るように課題を詰めながら、息の長い運動にして、世界遺産という郷土の誇りを実現したいと思いますので引き続き応援よろしくお願いいたします。

岡山藩郡代津田永忠顕彰会
会長 小嶋光信


岡山の貴重な文化財が県民の誇りとなり、地域の文化財の価値を再発見する契機となるよう世界遺産登録を目指してまいります。

事績マップ


津田永忠の事績

English is here.

いまからおよそ三百年前、延宝から元禄・宝永年間(1672〜1705)にかけて、岡山藩では実質的な藩祖とうたわれる池田光政と二代藩主池田綱政のもとで、地域経済の基盤である農業の振興を目的とした多彩な藩営事業が次々と構想され、実現しています。

2千数百町歩に及ぶ広大な干拓新田や、岡山平野に張り巡らされた稠密な農業用の利水排水網、岡山の城下町を洪水から護りつづけてきた百間川、わが国初の本格的な庶民教育の場となった閑谷学校、かつての農村景観をほとんどそのままの形で継承する大名庭園後楽園、そして現存するわが国最古の運河閘門である吉井水門などの一連の農業土木・文化遺産群がそれです。

遺産の多くは、技術的・造形的完成度の高さから国宝や国の特別史跡、国の特別名勝、国の重要文化財など、合わせて12件の文化財に指定されていますが、これら多彩な藩営事業の構想と築造・経営に深くかかわった人物こそが岡山藩郡代の津田永忠(1640〜1705)です。

津田永忠が本格的に登用されるようになった延宝初期(1672頃)の岡山藩は、相次ぐ洪水や飢饉のために藩財政は破綻寸前、多くの領民が餓死、あるいは餓死寸前の状況にあったといいます。この深刻な事態を打開すべく登用されたのが津田永忠です。

津田永忠はまず、徹底した冗費の節減を柱とした藩政改革を時の藩主綱政に建策し、それを断行するとともに、前藩主光政からの儒教的な命題である「仁政(ヒューマニズムにもとづく領民本意の政治)」の実現と「末代まで廃れざるものづくり」を基本に、その類い稀な構想力と卓越した指揮監督能力、独創的かつ高度な土木技術などを駆使することによって、当時タブーとされていた大規模な干拓新田開発や治水利水事業などにのぞみ、それをことごとく成功させています。そして飢饉から数年の後には、破綻に瀕していた藩財政再建のめどを立て、あわせて疲弊しきった領民の暮らしの再建と経済的な自立に腐心しています。

芥子山からのぞむ2千数百ヘクタールにもおよぶ広大な干拓新田や、周囲の環境と調和し美しく凛とした姿を見せる閑谷学校、数ある大名庭園の中でも水と緑と光のひときわ豊かな空間美を誇る後楽園、いまなおその独創に感嘆させられる運河式閘門の吉井水門など、一連の農業土木・文化遺産群は、いわば津田永忠の徹底した民政重視の思想と独創が生み出した類い稀な文化的結晶であるといっても過言ではありません。美しい人肌色の花崗岩を中心に地元産の石材を多用した用水護岸や民家の石垣など、津田永忠たちが先鞭をつけたともいえる岡山固有の伝統的な田園景観・文化景観は、現在に至るまで人々の日々の暮らしに受け継がれて、四季折々の美しい表情を見せています。

私たちは、これらの農業土木・文化遺産群を、郷土の誇り、わが国を代表する普遍的な文化資産、世界の宝として世界遺産に登録されるよう、市民ならびに産学官をあげて努力していきたいと願っています。


Commentary on the provisional list for the World Heritage Centre.

Although it was not possible to include the accomplishments of Nagatada Tsuda in the provisional World Heritage list this time, we are delighted with the possible inclusion of Shizutani School. We appreciate the Agency of Cultural Affairs for this. Thanks to the application people throughout Japan could get to know about Nagatada Tsuda, a brilliant figure from Okayama’s history, and about his accomplishments, which are part of our heritage. We take great pride in this in Okayama.

We are very glad that we, in a joint effort with the prefecture, three cities and a town were able to submit our list to the Agency for Cultural Affairs within less than half a year. Experts from many different fields have given their cooperation, beginning in February 2007, we would like to thank them for that.

It would make us very proud if one day these accomplishments could be recognized as World Heritage. This is a big challenge, and we would appreciate it if you continue supporting us.

Okayama Clan Nagatada Tsuda study group
Chairman Mitsunobu Kojima


Achievements of Nagatada Tsuda

The ruling Clan in Okayama planned and realized various projects that formed the basis of regional economies. This took place under Mitsumasa Ikeda, who is considered the founding father of the Okayama Clan, and under Tsunamasa Ikeda, the second Daimyo (Lord) of the Clan, about 300 years ago (from 1672 to 1705).

These projects ranged from agricultural, to civil engineering, to cultural. They included a vast area of reclaimed paddy fields, ranging over two thousand and several hundred hectares; a drainage system for farming the plains surrounding Okayama; the Hyakken River, which has been keeping the castle towns in Okayama from flooding; Shizutani School, the first official school in Japan for all children; a park built for the feudal lords called the Korakuen, where the farming scenery of that period can still be seen; and a water gate for the Yoshii River, which is the oldest waterway structure in Japan that still exists today.

Many of these heritage sites have been designated to 12 cultural assets, including National Treasures, National Special Historic Sites, Special Places of Scenic Beauty and National Important Cultural Assets.

The person responsible for the planning, construction and management of these various projects was Nagatada Tsuda (1640-1705). He was a representative of the Okayama Clan. Around the year 1672, the local economy was on the brink of bankruptcy. Many people were starving to death due to a succession of floods and famine. It was Nagatada Tsuda who was appointed to come up with a solution to these problems.

At first Nagatada proposed to Daimyo Tsunamasa political reform, focusing on a complete cut of waste. This was carried out.

In addition to this he succeeded in the large-scale development of the newly reclaimed paddy fields -which was taboo in those days- and in river improvement with many water circulation projects. For this he made good use of his excellent imagination and skills in supervising and civil engineering.

In these projects he felt inspired by a school of humanism called ‘Jinsei’, on which he based people-oriented politics. Here he applied the Confucian idea of building works (such as a river or a school) that would last for generations to come. Policy was based on these ideas since the rule of Mitsumasa.

Several years after the famine he implemented a schedule to rebuild the economy of the Okayama Clan, which had been in danger of bankruptcy. Also he made efforts to improve the lives of the people who were exhausted by what had happened and he worked on making them economically independent again.

It is not too much to say that Nagatada’s projects now form a unique cultural heritage, created through his drastic focus on the benefits for the general public (as opposed to only the aristocracy) and his originality. The heritage sites are composed of agricultural, civil engineering and cultural projects. They include a vast area of reclaimed paddy fields, ranging over two thousand and several hundred hectares; Shizutani School, which stands in beautiful and majestic harmony in the surroundings; the Korakuen, which is praised for its spaciousness and abundance of water, greenery and light when compared to other parks built for Japanese feudal aristocracy; and the highly original water gate of the Yoshii River.

The traditional pastoral and cultural landscapes that are typical of Okayama and also originate here were pioneered by Nagatada. Examples are the seawalls and fences for which local granite was used. This has a beautiful flesh color. This tradition has been passed down from generation to generation and the walls look attractive differently in every season. We will do our best to promote this heritage so that these agricultural, civil engineering and cultural sites will be registered as World Heritage : universal cultural assets typifying this country and as world treasures.

岡山藩郡代 津田永忠 の事績を岡山世界遺産に