後楽園津田永忠顕彰碑
後楽園の正門を入ってすぐの松林の奥に、津田永忠の事績を讃える大きな石碑「津田永忠遺績碑」が立っています。
碑文の末尾には、「明治十九年一月 従三位勳三等侯爵池田章政撰文、正五位日下部東作書、中備 藤田市太郎刻字」と、刻まれていますが、この碑が立てられたのは、明治二十九年十月のことです。
刻まれた文字、すなわち撰文はとうぜん漢文ですから、我々のような漢文の素養のない者には、いくら眺めてもそこにどういった内容が書かれているのか、まるでチンプンカンプンです。
しかしご安心ください。顕彰碑のかたわらには、後楽園事務所の設けた碑の解説看板に、碑文の読み下し文が掲げられています。
実は先日、このホームページの管理者のもとに、「定年後にはじめた書道の、手習い最初の教程が津田永忠顕彰碑の臨書で、その業績の凄さを知りました。五月下旬に岡山の地を訪問する機会ができたので、ぜひ事績を訪れたい」といった内容の、私どもにとっては実に嬉しいメールが届きました。それもそのはず、この碑の書は、明治大正期を代表する書道家・日下部鳴鶴(本名東作、1838〜1922)のものです。
私どもが、津田永忠の事跡を訪ねる催しなどを開催するときは、たいていこの碑を最初に訪れ,その碑文に書かれた内容の解説からはじめるほど、私どもにとっては実にかけがえのない記念碑なのですが、なぜかこのホームページでは、ご紹介を怠ったままになっていました。そうこうするうち、県内の方からも、「なぜ顕彰会のホームページで、後楽園の顕彰碑のことを紹介しないのですか。なにか理由がお有りなのですか」という、苦言とも助言とも受けとれる内容のメールをいただきました。
明らかに迂闊でした。苦言は謙虚に受けとめさせていただくとしても、こんな中途半端な内容のホームページでも、見ていて下さる方がいて、それに反応していただけるということは、実に嬉しいことです。
しかし、あまり無責任な内容も公開できないと思い、手持ちの資料をあれこれ引っ張り出したり、碑文を写し取った写真などをもとに事績碑に刻まれた漢文を、パソコンの限られた文字ではありますが書き興してみました。あわせて、読み下し文もご紹介します。
読み下し文をお読みいただければ、この碑の作られた経緯や、津田永忠さんの、時代を超えてとてつもなくスケールの大きな仕事ぶりの一端をご理解いただけると思います。
この碑文にも触れられていますが、明治十八年八月、明治天皇の岡山への行幸がこの顕彰碑建立のひとつのきっかけになったようです。ちなみに、いわゆる岡山の後楽園・金沢の兼六園・水戸の偕楽園をして『天下の三名園』とした説は、このとき明治天皇に同行した記者が言い出したようです。
さらに、碑文にもあるようにこの碑の建立に奔走した木畑道夫は、確か内田百間先生の恩師であり、彼の随筆にも登場していたはずです。また碑文、すなわち撰文の草稿は閑谷学校再興に尽力した西微山であると云います。西微山は、二度清国に遊学しています。なるほど、この撰文がいかにも格調高い名調子であることが納得されます。篆額も又、名君とうたわれた水戸藩主・徳川斉昭の九男の池田茂政です。御存じのように最後の将軍徳川慶喜は斉昭の七男、つまり茂政の兄ということになります。
津田永忠の遺跡碑にふさわしい、第一級の人たちによってこの碑は建てられたというわけです。
明治末年、この碑をご覧になった(であろう)明治天皇は、園内で、手ずから、津田永忠に、大名級の従四位を追贈されています。二十数年前の岡山の巡行の際の想い出がよほど鮮烈であった、という想像はもしかしたら許されるのかもしれません。
《原文》
津田永忠遺績碑 正三位勲三等池田茂政篆額
余毎過舊封備前覧風土文物未嘗不想見熊澤伯繼津田永忠之有功績于我家也伯繼輔佐余祖天下
人人之所知至永忠則知之者或鮮矣舊臣木畑道夫等恨其如此諗衆曰我芳烈公移封此土天下始免
干戈田野未辟禮文未備公鋭意図治急於輔弼之才或選賢於世臣或擧能於草莽遂得熊澤氏津田君
君歴仕二世在職五十年贊翼功績不遑枚擧設社倉以備凶荒頒節儉條法以救藩士之窮牧場造船以
修軍備毎郡興郷校置岡山閑谷兩學開墾幸島福浦沖倉田等及䟽鑿倉安川得地大約二千四百四十
五町晩致仕老于閑谷専督學校以終焉夫熊澤氏之事先輩已有傳行状事跡考之著而蕃山邨之遺址
亦有豊碑焉今君之功業如此而無一書片碑以表于世豈非可恨乎皆曰然将建碑来請文余維時明治
十八年八月 車駕西巡過備前余陪焉 駕経上道郡江並邨江並邨即沖也長隄亘數里平田數萬頃
茫茫連天其土肥其稼豊其民殷富回憶二百有餘年之前此茫茫者蕉葭所叢生魚鼈所羣遊今變為雞
鳴狗吠相聞之境者果誰功耶 駕進幸岡山學校駐後楽園三日茂樹嘉葩怪巌竒石鶴舞魚躍庭園泉
池之設㝡怡 天顔焉而経営之者其復誰耶既而 駕㳒倉安川絰和気郡伊里中邨却北即閑谷也有
㫖使侍従長徳大寺實則臨視余亦随行焉講堂聖廟魏然聳于㵎松萬翠之中咿唔之音与水聲鳥語相
和而経營之者其復誰邪皆莫非永忠之㓛業也因訪其退隠處得之黌東數十歩渓山幽絶之地焉於是
余低徊不能去鳥呼自古功成身退優游以卒歳者其与幾何冝矣道夫等欲與伯繼並傳於不朽也永忠
通稱重二郎又佐源太世臣也食禄千五百石其歿為寳永四年二月五日銘曰。
新田葱葱 無年不豊 倉安之水 灌漑四通 社倉遺法 以救民窮 造船牧場 軍須立供
況創學校 興禮譲風 凡百事業 輔我先公 施至今日 餘澤何空 此土宰者 永思其功
明治十九年一月 従三位勳三等侯爵池田章政撰文
正 五 位 日下部東作書
中備 藤田市太郎刻字
《読み下し文》※後楽園の説明文を一部修正しています。
- 余、舊封(きゅうふう)備前に過(よぎ)り、風土文物を覧(み)る毎(ごと)に、未だ嘗て熊澤伯繼(蕃山)、津田永忠の我が家于に功績有るを想見せずんばあらざるなり。
- 伯繼の余が祖を輔佐せること天下人人之知る所なれども、永忠に至りては則ち之を知る者、或ること鮮矣(すくなし)。
- 舊臣(きゅうしん)木畑道夫等、其の此(かく)の如きを恨み、衆に諗(つ)げて曰く、
- 「我が芳烈公(池田光政)、此の土に移封されしとき、天下始めて干戈(かんか)を免れ、田野未だ辟(ひら)けず。禮文未だ備はらず。公、鋭意治を圖(はか)り、輔弼(ほひつ)の才を急にし、或いは賢を世臣より選び、或いは能を草莽(そうもう)より擧げ、遂に熊澤氏、津田君を得たり。
- 君、二世に歴仕し、職に在ること五十年、贊翼(さんよく)の功績は枚擧に遑(いとま)あらず。社倉を設け以て凶荒に備へ、節儉條法を頒ち以て藩士の窮を救ひ、牧場造船以て軍備を修め、郡毎に郷校を興し、岡山、閑谷両黌を置き、幸島、福浦、沖、倉田等を開墾し、及び倉安川を疏鑿し、地を得ること大約二千四百四十五町なり。晩に致仕して閑谷に老い、専ら學校を督し以て終る。夫れ熊澤氏の事、先輩已に傳、行状、事跡考の著有り。蕃山邨(しげやまむら)の遺址も亦豊碑有り。今、君の功業此(かく)の如くなるに、而も一書片碑の以て世に表はす無し。豈(あに)恨むべきに非ずや」と。
- 皆曰く、「然り」と。將に碑を建てんとし、来たりて文を余に請ふ。維れ時明治十八年八月、車駕西巡し、備前に過り、余、陪(ばい)す。駕、上東郡江並邨を經。江並邨は卽ち沖なり。長隄數里に亙り、平田數萬頃(けい)、茫茫として天に連なり、其の土肥え、其の穫(か)豊かに、其の民殷富(いんぷ)なり。因りて憶ふ、二百有餘年の前、此の茫茫たるは、蕪葭(そうか)叢生(そうせい)する所、魚鼈(ぎょべつ)羣遊(ぐんゆう)する所、今變じて雞鳴狗吠(けいめいこうばい)相聞(そうもん)の境と為すは、果たして誰の功なる耶、と。駕進み岡山學校に幸(みゆき)し、後楽園に三日駐(とど)まる。茂樹嘉葩(もじゅかは)、怪巌竒石(かいがんきせき)、鶴舞魚躍、庭園泉池の設(もうけ)は、㝡(もっとも)天顔を怡(よろこ)ばす。而して之を経営するは其れ復(また)誰ぞ耶。既にして駕は倉安川に㳒(そ)ひ、和気郡伊里中邨に絰(いた)る。北に却れば即ち閑谷也。㫖有りて侍従長徳大寺實則を臨視せしむ。余も亦随行す。講堂、聖廟、魏然(ぎぜん)として㵎松萬翠(けんしょうばんすい)の中に聳え、咿唔(いご)の音、水聲鳥語と相和す。而して之を経營する者(は)、其れ復誰ぞ邪、皆永忠之功業に非ざるは莫き也。囙(めぐ)りて其の退隠の處を訪(おとな)う。之、黌の東數十歩、渓山幽絶の地に得たり。是に於いて、余、低徊し去ること能はず。鳥呼(ああ)、自古(いにしえより)功成って身退き、優游(ゆうゆう)以て歳を卒する者、其れ幾何(いくばく)与(かな)。冝矣(むべなるかな)、道夫等、伯繼與(と)不朽に並び傅ふるを欲するなり。永忠、通稱重二郎、又佐源太、世臣なり。食禄千五百石、其の歿為るは寳永四年二月五日と銘に曰く。
- 新田葱葱(しんでんそうそう) 無年不豊(ゆたかならざるとしはなく) 倉安之水(くらやすのみず) 灌漑四通(かんがいしつうす) 社倉遺法(しゃそうのいほう) 以救民窮(もってたみのきゅうをすくい) 造船牧場(ぞうせんぼくば) 軍須立供(ぐんのもちいたちどころにきょうする) 況創學校(いわんやがっこうをはじめ) 興禮譲風(れいじょうのふうをおこす) 凡百事業(ぼんひゃくのじぎょう) 輔我先公(わがせんこうをたすけ) 施至今日(ほどこしてこんにちにいたる) 餘澤何空(よたくなんぞむなし) 此土宰者(このどをつかさどるもの) 永思其功(ながくそのこうをおもえ)
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漢文は、英文同様、翻訳者により微妙に訳が異なります。多少、言い回しのおかしい所があるかもしれませんが、三種ほどの訳文の中から原文に素直であると思われる訳を紹介させていただきました。
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ところで、世界遺産登録の申請は、残念ながら御存じの通りの結果になってしまいましたが、現存する津田永忠さんの一連の遺跡の価値や評価は、新しい発見や研究がすすむにつれ高まりはせよ、下がるようなことは決してないはずです(もっとも、地元に住む我々がその価値を正しく認識、評価し、その価値を減ずることのないよう、それら遺産の維持管理に最大限の努力を払うという条件はつきますが‥‥)。
とにかく、これまで以上に地に足のついた活動が必要であることを、肝に銘じたいと思います。
以下は、蛇足ではありますが、司馬遼太郎さん『街道を行く』の中の言葉です。
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- 自然と人文に関する大きな思想と志がなければ、観光事業などは環境破壊を生むだけの、それそのものが企業公害になりかねない。さらにいえば、当主(主体者)が計算に長じていて、しかも自身が徹底して無欲でなければ、観光事業は国民の公賊になってしまうおそれがある。
- 日本の環境は、私有財産尊重の民法によって故人が欲しいままに切りとることができる。しかし環境そのものの本質は、法を越えて思想としてあくまでも公的なものである。せめてその程度の思想でも持っていなければ、観光事業は今後、公賊になるのではないか。
文責:サイコ生活デザイン研究所 佐野浩
A monument to the honor of the accomplishments of Nagatada Tsuda in the Korakuen
Shortly after you enter the front gate of the Korakuen park in Okayama, you will see pine trees. In their recesses, you can find “a monument to the honor of the accomplishments of Nagatada Tsuda”, which is a large stone monument celebrating Nagatada’s accomplishments. The monument was constructed in October of the 29th year of the Meiji calendar. (1896)
At the end of the inscription, “明治十九年一月 従三位勲三等候爵池田章政撰文、正五位日下部東作書、中備 藤田市太郎刻字” is inscribed in classical Chinese.
(January 1886: Akimasa Ikeda, nobleman of the junior third rank and the third order of merit; Tosaku Kusakabe, editor of the senior fifth rank and calligraphy artist, from the Chubi region in Western Okayama; Ichitaro Fujita, who carved the characters.)
Unfortunately, people who have never studied classical Chinese can’t understand what is inscribed on it no matter how seriously they look at it. On the information board next to the monument you can find a transcription of the classical Chinese into Japanese. This transcription is the work of Hiroshi Sano, the former secretary of the Nagatada Tsuda study group (Tsuda Nagatada Kenshokai). This association meets once a month and study Nagatada Tsuda's life and achievements, they also give lectures on these topics.
As the transcription shows, it seems that the visit of the Meiji Emperor (Mutsuhito) to Okayama in August of Meiji 18 (1885) lead to the construction of the monument.
The theory that puts the Korakuen in Okayama, the Kenrokuen in Kanazawa and the Kairakuen in Mito together to create “the three famous gardens in Japan” seems to have been created by a reporter accompanying the Meiji Emperor. Furthermore Michio Kibata, who made every effort to construct the monument, was probably a teacher of Hyakken Uchida (a famous writer from Okayama) and should have been mentioned in his essay. In addition, a draft of the inscription seems to have been written by Nishi Bisan, who contributed to the restoration of the Shizutani School. Nishi went to Shin (China) twice to study. Therefore it is likely that he was the author as the inscription was written in an elegant and eloquent style. The title was written by Shigemasa Ikeda, who was the 9th son of the chief of the Mito Clan, Nariaki Tokugawa, who was known as a good lord. He was also a brother of Nobuyoshi Tokugawa, who was the last general of the Tokugawas.
Thus, the monument of Nagatada Tsuda was constructed by a group of first-class people.
When the Emperor Mutsuhito visited the monument again at the end of the Meiji period, he himself bestowed Nagatada posthumously with an rank in the Japanese nobility, he made him a 4th grade lord. This ceremony took place in the Korakuen. We can imagine that walking around in Okayama 20 years earlier had made a deep impression on him.
The translation of the classical Chinese to Japanese slightly varies depending on the translator. Here is a translation that is supposed to be the closest of the three types, itself translated into English.
Unfortunately our applications to list Nagatada's accomplishments as World Heritage have thus far been rejected. It is, however, likely that the more we discover about Nagatada's work and the more we investigate and evaluate it, the more their significance increases. Local people can properly recognize the value of his accomplishments.They can also help to sustain and manage them to make sure their value only goes up.
In any case, we would like to create more activities around his accomplishments.
Finally, I would like to end this article with a quote from "Kaidou wo Iku" by Ryotaro Shiba.
"Without great care and regard for nature and human science, tourism itself can become a source of pollution and bring about environmental destruction. Unless we come with the right attitudes, tourism can bring harm to the public."
"Japanese Civil Law values private property, but allows us to destroy the environment as we like. However, the nature of the environment is a matter of great concern to the public. This goes beyond the law. Unless we at least consider this, tourism can cause a lot of damage."