岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

地域開発事業

倉安川の開鑿と上道郡倉田新田の開発
大用水の開鑿を伴った邑久郡幸島新田の開発
三番用水などの開鑿を伴った上道郡沖新田の開発
田原井堰の築造を伴った磐梨郡の田原用水、和気郡の益原用水の開鑿
竹田・中島の荒手の築造を伴った上道郡百間川のなどの築造

文化事業

代表的大名庭園後楽園の築庭
藩主池田家の墓所である護国山曹源寺(正覚谷墓所は国指定史蹟)
閑谷学校(国指定史蹟)の講堂(国宝)・聖堂(国指定重要文化財)・芳烈祀(国指定重要文化財)・石塀・鶴鳴門(国指定重要文化財)など
備前一宮吉備津彦神社

閑谷学校関連施設

現存する日本最古の学校施設(国の特別史跡)、しかも創建当初から庶民に開かれていたフリースクールです。
備前焼の赤瓦が美しい講堂は学校建築物としては唯一の国宝、今も子どもたちの論語誦読の声が響きます。
備前積みといわれ独特の造形美を誇る石塀を含めて、すべての建造物は重要文化財に指定されています。



京都妙心寺にあった父祖の墓を領内に移し、儒式に則って改葬したいと考えた池田光政は、寛文5年(1665)2月25日、津田永忠に「備前国中の諸山を巡視し」墓所適地を探すよう命じます。永忠はさっそく同年4月23日より、領内をくまなく見てまわり、その結果を翌寛文6年(1666)に報告したようです。その年の10月27日、光政は岡山を出てその日は片上に泊り、翌日木谷村を見分、その日は吉田村に宿を求め、翌日脇谷村の山々(土休から敦土山)を永忠を案内に検分しています(「御墓出来記」より)。

永忠の『奉公書』によると、このとき光政は、脇谷の山を墓所に選び、木谷の山奥は「山水清閑にして読書講学の適地なり、ゆくゆくは学校に仰せ付けるべし」と、永忠に内意したとあります。
この頃の永忠はとにかく多忙です。よほど光政の信頼が厚かったのでしょう。同じ年の11月には、石山に仮学館を開き、光政の祖父輝政と父利隆の遺骨を京都妙心寺から片上湊に迎え、八木山村の仮宮に安置しています。またこの頃、その後彼の片腕となって数々の事業を支えた石塔石工の河内屋治兵衛を大阪から岡山に呼んでいます。
翌寛文7年(1667)に入ると、3月に泉仲愛とともに和意谷奉行に命じられ、墓域の整備に専念していたようです。

そして寛文8年(1668)正月には江戸に赴き、芝の御堀普請の任に当たって4月に帰国しますが、その同じ月、休む間もなく泉仲愛とともに諸郡に手習所123ヶ所を取立てるよう命じられています。このとき永忠は、和気郡に12ヶ所の手習所を開設していますが、当時の記録を見ますと、その内の一つに「木谷村の内、閑谷」に生徒数16名の手習所が見えます。おそらくこの手習所が、後の閑谷学問所(学校)に発展したものと思われます。
『池田光政公伝』にも、「寛文8年、手習所をこの地に設く」とあり、「寛文10年5月14日、津田重次郎に命じて木谷村の北端、延原に学校を建てしめ、冬、仮学校成る。延原を改めて閑谷と称す、閑静なる山谷を意味するなり」とあります。



このとき光政は永忠に、「学校はもとより大願の事なれば、今までのごとくその分になりては無益の事なり、この趣旨をよく知る汝は、後世までも廃れさす事の無いようにすべし」と命じ、寛文12年(1672)8月に藩主の座を嫡子の綱政に譲り引退すると、10月28日江戸で永忠に、お城での仕事を辞め、閑谷に在宅して閑谷学問所や手習所のことに専念するよう勧告しています。
これを承けて永忠は城下から閑谷の奥に住居を移し、光政の「大願」である閑谷学問所の充実と「末代まで廃れざる」施設づくり、学校経営の仕組みづくりに心血を注ぎます。しかし、天和2年(1882)5月に光政が亡くなると、学校経営はたちまち大きな危機に見舞われます。永忠は頼みになりそうな重臣たちに、光政がどれほど学問所のことを重要と考えていたか、その意志を後世まで護るための対策はこうこうしかじかと、手紙を書き足を運びその存続に奔走せざるを得なくなります。とにかくその時に受けた永忠の衝撃や心労は並大抵ではなかったようで、以後、永忠はまさに命がけで閑谷学問所の「末代まで廃れない」仕組みづくりと施設づくりに執念を燃やし始めます。

貞享元年(1684)には、学問所経営の責任の所在を明確にするよう「進言書」を差し出し、「故光政公の意志を知る自分が自らの遺言状にしたためるので、自分の子孫を学問所経営の専管にしてほしい」と願い出ています。一方で、学問所の経営を藩経営から切り離し自立さすべく、学問所の土地や施設、学問所の運営にあてがわれていた田畑を学問所を地主とする学校田に切り替え、さらには学問所の精神的な拠り所である孔子を祀る聖堂を再建し、その建物も「後世まで廃れさす事のないよう」屋根を備前焼の瓦で葺くなどしています。そして貞享3年(1686)には、光政を神として崇めたてまつる芳烈祠(現在の閑谷神社)を新たに建立するといった念の入れようです。



その後の永忠の仕事ぶりは、まさに超人的、というかほとんど神がかり的ですらあります。
かつて前例のないほどの規模の幸島新田(560ヘクタール)や沖新田(1918ヘクタール)といった広大な干拓新田の開発や、備前大用水や田原用水などの灌漑用水(永忠たちが開鑿整備した用排水網の総延長は末端用水まで含めれば優に1000キロメートルを越えるものと思われます)の延伸開鑿に、創意をこらし人材を養成し、用意周到かつ戦略的に体制を整え、組織と財源を強化し取り組んでいます。そしてそれらを、現在でもなお信じられないほどのごく短期間に、しかもきわめて投資効率の高い形でことごとく成功させています。

そして藩経営の元となる農民の暮らしの建て直しと、相次ぐ飢饉で疲弊しきっていた農民の救済と自立のための数々の大規模開発事業を完成させ、藩の財政再建や藩政改革に一応のメドをつけた後の元禄14年(1701)、再び閑谷学問所の整備に着手しています。数百年の風雪にも耐えるよう様々な工夫を凝らした備前焼の赤瓦も美しい講堂(現存のもの)を完成させ、それら施設を火事からまもる避火山や見事な造形美を誇る堅牢な石塀を周囲に延々と築き上げ、「後世まで廃れない」ための万全を期すとともに、最後の最後の仕上げとして光政の遺髪や歯を納めた椿山を築き、光政の金銅像を造らせています。



そして宝永元年(1704)3月、これまでの知行(1500石)と城下の家屋敷を返上し、閑谷学問所附属の270石のみを拝領するにとどめ、光政遺言の閑谷学問所と和意谷の墓所、井田、社倉米の役のみをこれまで通りつとめたいとの嘆願書を綱政に差し出し、容れられています。
このように死の直前まで、光政の意志(岡山の地に「仁政」にもとづく理想の国づくりをすること、それはまた永忠や、彼の生涯の友・泉仲愛たちの共有する志でもありました)をいかに誠実に実現し、それを後世までどう維持しつづけていくか、永忠はとにかくこの一点に心を砕き、閑谷のこの地で涙ぐましい努力を重ねつづけてきたようです。

閑谷の、世界に数ある歴史建築物のなかでも第一級の建築美を誇る国宝の講堂など、閑谷の一連の建築群を支える柱や梁、床はもちろんのこと、備前焼の屋根瓦の一枚一枚に、また石塀に刻まれたノミ跡の一つ一つに、そうした永忠の執念のようなものを感じないわけにはいきません。
閑谷の建築群の特徴を一言で表現すれば、簡にして素のなかに高い精神性を宿しているといったところでしょうか。
それは、池田光政や津田永忠、泉仲愛の生きざまそのものでもあったはずです。



わが国の庶民教育史に燦然と輝く備前市の閑谷学校。備前焼の赤瓦が美しい講堂は国宝です。
その他の建造物も国の重要文化財に指定されています。



「末代まで廃れざるものづくり」を基本に、津田永忠は、柱や床はもちろん、屋根裏の構造材にいたるまで徹底的にこだわりました。



閑谷学校の創学者・池田光政を祀った閑谷神社。当初は池田光政の諡である芳烈公にちなんで「芳烈祠」といわれていました。



閑谷学校の石塀は、永忠の最晩年に築かれています。このような見事な石組みが8百数十メートルにわたってつづきます。マヤやインカの遺跡を思わせる美しく精緻な石組みに、永忠とこれを築いた石工たちの執念のようなものが窺えます。



閑谷学校の文庫には、中国の古典である「四書五経」をはじめとする当時の貴重な図書類のほかに、光政の遺品等が納められていました。

《閑谷学校までのアクセス》
JR吉永駅からのんびり歩いて約1時間、車で10分ほどです。
駐車場はありますが、春秋の行楽シーズンはいっぱいになります。