田原用水水路橋
元禄6〜7年(1693〜4)頃に行われたと推測される田原用水の延伸工事で、小野田川の上を交差して通水するために津田永忠によって設置された掛樋(かけひ:水路橋)です。方形の柱状石材を組み合わせて築かれており、水路橋部分の大きさは長さ約13m、幅約3m、深さ約1m。国内ではもちろん最大規模の石造水路橋で、現在は移築して保存されています。
田原用水は、和気町田原上の吉井川に設けられた田原井堰を水口に、旧熊山町釣井を通って岡山市瀬戸の砂川に至る総延長約20km、灌漑総面積600haに及ぶ幹線用水です。その余水は砂川を経由して沖新田(1918ha)の灌漑用水としても用いられました。
延宝7年(1679)の倉安川の開鑿と倉田新田(300町歩)開発の功を認められ、津田永忠はやがて藩主綱政の全幅の信頼を得るようになります。しかし先の洪水以来、藩内各所の農地の荒廃と農民の疲弊は激しく、回復は思うように進まなかったようです。さらに、それに追い打ちをかけるかのように、岡山藩はこの頃ほとんど毎年のように洪水や飢饉に見舞われるという試練に直面しています。幕命による、焼失した京都御所の再建(延宝3年10月完成)時の莫大な出費も岡山藩経営建て直しの重い足枷になっていたようです。
綱政は、延宝8年12月、その対応を永忠と服部与三右衛門の二人に命じ、二手に分かれて領内を巡見させています。おそらくこの間永忠は、領民たちの窮状の把握とその対策を郡奉行と相談、指示するといった仕事のかたわら、こうした岡山藩の危機的状況の克復には、かつて光政が明歴三年(1657)に構想した児島湾北岸における新たな新田開発以外にないとの想いをますます強め、その実地調査、特に水源や幹線用水整備のための調査を併せ行っていたものと思われます。もちろん二人の飢人対策は水際立ったものであったようです。
吉井川左岸、邑久郡神崎沖の付き洲(邑久填海)の新田開発(幸島新田)には、吉井堰上流の坂根に新たな堰を築き、そこから千町平野を南北に貫流し、神島(大ヶ島)山塊を長沼から神崎宮ノ端まで、さらに神崎から邑久郷にまでぐるっと迂回させ西片岡から邑久湾に注ぐ新堀(備前大用水)の構想をあたため、一方旭川左岸から吉井川右岸に広がる広大な付き洲の新田開発(沖新田)の水源としては、吉井川のさらに上流、池田忠雄(1602〜1632)の時代に設けられた和気郡の田原井堰の再整備と、赤磐郡の釣井までだった田原用水を砂川まで開鑿延伸することによって供給できるかもしれないとの目論見をこのとき建てたのかもしれません。
天和2年(1682)正月、津田永忠は服部与三右衛門とともに綱政から光政以来の長年の功を賞せられ、知行200石加増の上、郡代に任じられています。郡代とは、土木事業はもちろんのこと岡山藩内諸郡の民政全般を取り仕切る重責です。ちなみに江戸幕府の草創期、やはり永忠同様、数々の治山治水事業や新田開発に功績のあった伊奈忠次(1550〜1610)は関東郡代でした。
しかしその年の5月、永忠は、14歳で児小姓として奉公して以来、常に側近くに奉公し生涯尊崇してやまなかった前藩主・光政の死に直面します。そして翌天和3年5月には母お寧を、そして11月には父佐源太を相次いで亡くしています。永忠の生涯で最も辛い時期であったと言っても過言ではないでしょう。しかし永忠は悲しみに浸る間もなく、光政の命題とした「仁政」実現を光政の遺志と胆に銘じ、むしろその哀しみをエネルギーに転化させることで克復しようとしたようです。その年の暮れには服部与三右衛門を通じて邑久郡幸島新田(561ha)の取立てを具申し、翌貞享元年(1683)2月に着工、9月には正儀から幸島、外波、乙子に至る総延長3千428間(6.23km)もの長大な潮止め堤を島づたいに完成させています(『幸島村史』)。
このとき藩主綱政はよほどこの新田工事が気になっていたのでしょう。8月14日には舟で現場を訪れ、その進捗状況を見分しています。また永忠は、その年の12月19日、綱政に対して「新田を開発することは、五穀の稔らない所を人の力で五穀の実る所に変え日本の穀物増産に貢献することです。これこそは天道、あるいは天下へのご奉公と奉り存じ候」と、光政から教えられた所を自らの意見として述べています。
翌貞享2年正月からは、かねてからの目論見どおり倉安川の水口となる吉井堰からさらに上流の和気郡坂根に堰を築き、一部は既存の用水を拡幅(1間半であったものを6間に)修復等して利用してたようですが、そこから邑久郡西片岡村に至る総延長4里24町22間(18.4km)、灌漑総面積は幸島新田を含めて3千420町歩に及ぶ灌漑用水(大用水)を僅か半年で完成させています。
このとき、邑久郡福本村豆田で香登川と交差する所に掛樋を築いたようですが、水流が強く度々破損したようで、その後、石垣や基礎などを念を入れて築き直したとあります。上の写真で見る田原用水の掛樋には、倉安川用水やこの大用水での多数の掛樋や底樋普請の経験がような生かされたのではないでしようか。
後に残るのは吉井川左岸から旭川右岸にかけての広大な
元禄年間の田原井堰の改築と田原用水の延長工事は、津田永忠とその配下の職能集団の総力を結集した大工事でした。小野田川をまたぐ田原用水の石の懸樋に、その卓越した技量がうかがえます。
ここで確立した数々のノウハウと独創は、その後の、当時としては世界的に見ても類を見ない1千918ヘクタールにもおよぶ大規模干拓新田・沖新田の開発や百間川の河口に設けられた大水尾と巨大水門群による独創的な余水排水施設の開発へとつながったようです。
蕃山の批判を甘受しつつ、治水と開発を見事に両立させ、かつ、光政が永忠に課した重い命題「後世に廃れざる」ものづくりに、科学的な探求心と合理的精神で果敢に挑戦し、それを見事に実現しています。
しかし永忠の功績は、農業土木や建築にとどまるものでは決してありません。教育や福祉、文化の面でも、数々の先駆的な事業を成し遂げています。光政の理想とした「仁政」を、文字通り「知行合一」の精神で実現した永忠の功績に、いま、私たちが学ぶことはきわめて多いのではないでしょうか。
田原用水は、和気町田原上の吉井川に設けられた田原井堰を水口に、旧熊山町釣井を通って岡山市瀬戸の砂川に至る総延長約20km、灌漑総面積600haに及ぶ幹線用水です。その余水は砂川を経由して沖新田(1918ha)の灌漑用水としても用いられました。
延宝7年(1679)の倉安川の開鑿と倉田新田(300町歩)開発の功を認められ、津田永忠はやがて藩主綱政の全幅の信頼を得るようになります。しかし先の洪水以来、藩内各所の農地の荒廃と農民の疲弊は激しく、回復は思うように進まなかったようです。さらに、それに追い打ちをかけるかのように、岡山藩はこの頃ほとんど毎年のように洪水や飢饉に見舞われるという試練に直面しています。幕命による、焼失した京都御所の再建(延宝3年10月完成)時の莫大な出費も岡山藩経営建て直しの重い足枷になっていたようです。
綱政は、延宝8年12月、その対応を永忠と服部与三右衛門の二人に命じ、二手に分かれて領内を巡見させています。おそらくこの間永忠は、領民たちの窮状の把握とその対策を郡奉行と相談、指示するといった仕事のかたわら、こうした岡山藩の危機的状況の克復には、かつて光政が明歴三年(1657)に構想した児島湾北岸における新たな新田開発以外にないとの想いをますます強め、その実地調査、特に水源や幹線用水整備のための調査を併せ行っていたものと思われます。もちろん二人の飢人対策は水際立ったものであったようです。
吉井川左岸、邑久郡神崎沖の付き洲(邑久填海)の新田開発(幸島新田)には、吉井堰上流の坂根に新たな堰を築き、そこから千町平野を南北に貫流し、神島(大ヶ島)山塊を長沼から神崎宮ノ端まで、さらに神崎から邑久郷にまでぐるっと迂回させ西片岡から邑久湾に注ぐ新堀(備前大用水)の構想をあたため、一方旭川左岸から吉井川右岸に広がる広大な付き洲の新田開発(沖新田)の水源としては、吉井川のさらに上流、池田忠雄(1602〜1632)の時代に設けられた和気郡の田原井堰の再整備と、赤磐郡の釣井までだった田原用水を砂川まで開鑿延伸することによって供給できるかもしれないとの目論見をこのとき建てたのかもしれません。
天和2年(1682)正月、津田永忠は服部与三右衛門とともに綱政から光政以来の長年の功を賞せられ、知行200石加増の上、郡代に任じられています。郡代とは、土木事業はもちろんのこと岡山藩内諸郡の民政全般を取り仕切る重責です。ちなみに江戸幕府の草創期、やはり永忠同様、数々の治山治水事業や新田開発に功績のあった伊奈忠次(1550〜1610)は関東郡代でした。
しかしその年の5月、永忠は、14歳で児小姓として奉公して以来、常に側近くに奉公し生涯尊崇してやまなかった前藩主・光政の死に直面します。そして翌天和3年5月には母お寧を、そして11月には父佐源太を相次いで亡くしています。永忠の生涯で最も辛い時期であったと言っても過言ではないでしょう。しかし永忠は悲しみに浸る間もなく、光政の命題とした「仁政」実現を光政の遺志と胆に銘じ、むしろその哀しみをエネルギーに転化させることで克復しようとしたようです。その年の暮れには服部与三右衛門を通じて邑久郡幸島新田(561ha)の取立てを具申し、翌貞享元年(1683)2月に着工、9月には正儀から幸島、外波、乙子に至る総延長3千428間(6.23km)もの長大な潮止め堤を島づたいに完成させています(『幸島村史』)。
このとき藩主綱政はよほどこの新田工事が気になっていたのでしょう。8月14日には舟で現場を訪れ、その進捗状況を見分しています。また永忠は、その年の12月19日、綱政に対して「新田を開発することは、五穀の稔らない所を人の力で五穀の実る所に変え日本の穀物増産に貢献することです。これこそは天道、あるいは天下へのご奉公と奉り存じ候」と、光政から教えられた所を自らの意見として述べています。
翌貞享2年正月からは、かねてからの目論見どおり倉安川の水口となる吉井堰からさらに上流の和気郡坂根に堰を築き、一部は既存の用水を拡幅(1間半であったものを6間に)修復等して利用してたようですが、そこから邑久郡西片岡村に至る総延長4里24町22間(18.4km)、灌漑総面積は幸島新田を含めて3千420町歩に及ぶ灌漑用水(大用水)を僅か半年で完成させています。
このとき、邑久郡福本村豆田で香登川と交差する所に掛樋を築いたようですが、水流が強く度々破損したようで、その後、石垣や基礎などを念を入れて築き直したとあります。上の写真で見る田原用水の掛樋には、倉安川用水やこの大用水での多数の掛樋や底樋普請の経験がような生かされたのではないでしようか。
後に残るのは吉井川左岸から旭川右岸にかけての広大な
元禄年間の田原井堰の改築と田原用水の延長工事は、津田永忠とその配下の職能集団の総力を結集した大工事でした。小野田川をまたぐ田原用水の石の懸樋に、その卓越した技量がうかがえます。
ここで確立した数々のノウハウと独創は、その後の、当時としては世界的に見ても類を見ない1千918ヘクタールにもおよぶ大規模干拓新田・沖新田の開発や百間川の河口に設けられた大水尾と巨大水門群による独創的な余水排水施設の開発へとつながったようです。
蕃山の批判を甘受しつつ、治水と開発を見事に両立させ、かつ、光政が永忠に課した重い命題「後世に廃れざる」ものづくりに、科学的な探求心と合理的精神で果敢に挑戦し、それを見事に実現しています。
しかし永忠の功績は、農業土木や建築にとどまるものでは決してありません。教育や福祉、文化の面でも、数々の先駆的な事業を成し遂げています。光政の理想とした「仁政」を、文字通り「知行合一」の精神で実現した永忠の功績に、いま、私たちが学ぶことはきわめて多いのではないでしょうか。