映像物語
映像物語「庭園のこころ、新世紀へ」
後楽園三百年祭のプレシンポジウムの時に上映したものです。
写真もおいおい整備していきます。
特別名勝指定の庭園
天下の三名園と称され、四季折々に美しい姿を見せる後楽園。江戸時代を代表する林泉回遊式の大名庭園として、昭和27年、国の特別名勝に指定されています。この後楽園が一応の完成をみたのは、今からおよそ300年前の元禄13年、西暦1700年のことで、当時はただ単に「御後園」とか「お茶屋」と呼ばれていたようです。この庭園の作庭を思い立ったのは、当時の岡山藩主池田綱政。作庭を指揮したのは後の岡山藩郡代津田永忠でした。
▼池田綱政について
池田綱政は岡山藩の藩祖として慕われた池田光政の嫡男として寛永15年、西暦1638年正月、江戸の岡山藩屋敷に生まれています。母は勝子、徳川二代将軍秀 忠の娘千姫と本多忠刻との間に生まれた娘です。その母勝姫の膝元で綱政は二十歳の頃まで、それこそ蝶よ花よと甘やかされ育てられました。したがって徳川家との関わりも深く、自ら能を舞い、和歌や蹴鞠を楽しみました。また子供の数は数え切れないほどという大変な発展家であったといいます。名君の誉れ高く文武 両道の父光政とは、明らかに性格の異なる公家的な大名であったようです。
江戸の雅の影響
その綱政が光政引退の後をうけて 備前岡山31万5千石の藩主となったのは、寛文12年、西暦1672年6月、34歳のときのことでした。先代光政は儒教的な理想主義に燃え、全ての領民を 慈しむ仁政の実現に心を砕く模範的な封建君主でした。しかしその反面、城下町では歌舞音曲の類は厳しく規制され、また食べ物も一汁一菜を基本とし、一切の 贅沢を敵としました。その光政の統治下で、いつしか岡山には「備前風」と呼ばれる質実剛健の気風が培われていきます。
しかし、江戸の雅な空気の中、遊び放題、わがまま放題に育った綱政にとって、江戸から遠く離れた岡山の城下町は退屈な田舎町に過ぎなかったのでしょう。何とか自分の趣味を、とりわけ能を思う存分堪能できる場所が欲しいー、そうした気持ちが後楽園を作るきっかけになったのかもしれません。
永忠の登用
ところが綱政が藩政を引き継いだばかりの延宝年間の岡山藩は、大きな風水害や飢饉が相次いだため年貢の収納高も大きく落ち込み、藩財政は破綻寸前という有様 でした。こうした危機的状況に陥っていた岡山藩救済の切り札として登用されたのが、光政の引退とともに和気閑谷への移住を命じられていた津田永忠でした。
▼津田永忠について
津 田永忠は幼名を又六とい、寛永17年、西暦1640年、現在の岡山県立美術館の近く弓之町に生まれました。寛永15年生まれの池田綱政とは、わずか2歳違 いということになります。父は津田左源太貞永、誠実な人柄で光政、綱政からの信頼も極めて厚かった人物でした。母は土佐藩士安藤伝左衛門の娘お寧、この母 もまたいかにも土佐藩士の娘らしい、山内一豊の妻のような良妻賢母であったと伝えられています。
そんな両親の下に生まれ育った津田永忠は、早くから「その才は国中に並ぶ者無し」と光政に言わしめるほどの逸材でありました。津田永忠が父左源太とともに 江戸にあがったのは児小性として光政に仕えはじめた承応2年、西暦1653年のことでした。以後、寛文年間までの十数年間、永忠は光政の参勤交代に伴って 1年おきに江戸に上っています。少年永忠の目に映った江戸の町はどんな様子だったのでしょう。江戸市中を焼き尽くした明暦の大火、その前後の江戸の町中を 父に連れられ、あるいは光政に従い、興味津々、つぶさに見て回ったことでしょう。
また当時の岡山藩には儒学者として高名であった熊沢蕃山 おり、その蕃山と夜を徹し語り明かした感激を、永忠は日記に書き残しています。多感な少年期におけるこの江戸での体験は、おそらくその後の永忠の人格形成 やあるいは彼が関わった多くの仕事に多大な影響を及ぼしたのではないでしょうか。
そしてこのときからおよそ40年後の元禄年間、後楽園の完成した頃、岡山藩は池田綱政、津田永忠の二人によって吉備二千年の歴史の中で、文化的、精神的におそらく最も光り輝いた一時期を迎えることになります。
▼現存する永忠の事績
時代は少し前後しますが、永忠が関わったと伝えられる仕事から現存する事績を順に拾ってみましょう。まず、我が国の庶民教育史に燦然と輝く備前市の閑谷学校。備前焼の赤瓦が美しい講堂は国宝、その他の建造物も国の重要文化財に指定されています。
光政引退後の一時期、永忠はここから400メートルほど奥まったところに静かに暮らしていました。そして日生大多府島の開港、300年の風雪に耐えた石積みの波止が残っており、国の登録文化財に指定されています。
備前市穂波には中国周の時代の祖税方にならった井田、ここには幕府の儒学者山田方谷の碑文を刻んだ石碑が建てられています。
そしてやはり儒教の様式にのっとって作られた和意谷の池田家墓所。壮大な構想に基づく田原井堰とその掛樋。吉井川と旭川をつなぐ運河としても機能した倉安川用水とその水門跡。
岡山の城下町を水害から守った百間川と一の荒手。そして堤は延々児島湾まで続いています。そして岡山市円山の山裾に建てられた曹源寺と、やはり永忠が関わったと伝えられる池泉式庭園。そのやや奥に築かれた正覚谷の池田家墓所には綱政の墓があります。
備 前一宮の吉備津彦神社社殿前の手水鉢には、永忠の信頼厚く数々の難事業を共に成し遂げた石工河内屋治兵衛の名も刻まれています。そして元禄以後、長く岡山 藩財政を根本から支える力となった1900町歩にも及ぶ広大な沖新田の干拓田。ここには独創的な干拓事業の技術的な裏付けとなった無数の樋門跡が今なお児 島湾の波打ち際に多数残されています。
300年後の今日でさえ、これら一連の仕事の並外れた構想力とスケールの大きさ、緻密な計画性、さらにはそれを支えたであろう情念の熱さ、大きさに私たちはただただ圧倒されるばかりです。恐らくこれらの仕事の背景には、その時代を生きる人々のためだけでなく、後に続く人々への祈りにも似た熱いメッセージが込められていたのではなかったでしょうか。
後楽園の作庭を発意した池田綱政、そしてそれを指揮した 津田永忠。二人の思いはもしかしたら全くかけ離れたものであったのかもしれません。しかし、後楽園のこの美しい庭園空間は高い精神性と芸術性を維持しつつ、300年を経た今日もなお、訪れる多くの人々を魅了してやみません。
後楽園三百年祭のプレシンポジウムの時に上映したものです。
写真もおいおい整備していきます。
特別名勝指定の庭園
天下の三名園と称され、四季折々に美しい姿を見せる後楽園。江戸時代を代表する林泉回遊式の大名庭園として、昭和27年、国の特別名勝に指定されています。この後楽園が一応の完成をみたのは、今からおよそ300年前の元禄13年、西暦1700年のことで、当時はただ単に「御後園」とか「お茶屋」と呼ばれていたようです。この庭園の作庭を思い立ったのは、当時の岡山藩主池田綱政。作庭を指揮したのは後の岡山藩郡代津田永忠でした。
▼池田綱政について
池田綱政は岡山藩の藩祖として慕われた池田光政の嫡男として寛永15年、西暦1638年正月、江戸の岡山藩屋敷に生まれています。母は勝子、徳川二代将軍秀 忠の娘千姫と本多忠刻との間に生まれた娘です。その母勝姫の膝元で綱政は二十歳の頃まで、それこそ蝶よ花よと甘やかされ育てられました。したがって徳川家との関わりも深く、自ら能を舞い、和歌や蹴鞠を楽しみました。また子供の数は数え切れないほどという大変な発展家であったといいます。名君の誉れ高く文武 両道の父光政とは、明らかに性格の異なる公家的な大名であったようです。
江戸の雅の影響
その綱政が光政引退の後をうけて 備前岡山31万5千石の藩主となったのは、寛文12年、西暦1672年6月、34歳のときのことでした。先代光政は儒教的な理想主義に燃え、全ての領民を 慈しむ仁政の実現に心を砕く模範的な封建君主でした。しかしその反面、城下町では歌舞音曲の類は厳しく規制され、また食べ物も一汁一菜を基本とし、一切の 贅沢を敵としました。その光政の統治下で、いつしか岡山には「備前風」と呼ばれる質実剛健の気風が培われていきます。
しかし、江戸の雅な空気の中、遊び放題、わがまま放題に育った綱政にとって、江戸から遠く離れた岡山の城下町は退屈な田舎町に過ぎなかったのでしょう。何とか自分の趣味を、とりわけ能を思う存分堪能できる場所が欲しいー、そうした気持ちが後楽園を作るきっかけになったのかもしれません。
永忠の登用
ところが綱政が藩政を引き継いだばかりの延宝年間の岡山藩は、大きな風水害や飢饉が相次いだため年貢の収納高も大きく落ち込み、藩財政は破綻寸前という有様 でした。こうした危機的状況に陥っていた岡山藩救済の切り札として登用されたのが、光政の引退とともに和気閑谷への移住を命じられていた津田永忠でした。
▼津田永忠について
津 田永忠は幼名を又六とい、寛永17年、西暦1640年、現在の岡山県立美術館の近く弓之町に生まれました。寛永15年生まれの池田綱政とは、わずか2歳違 いということになります。父は津田左源太貞永、誠実な人柄で光政、綱政からの信頼も極めて厚かった人物でした。母は土佐藩士安藤伝左衛門の娘お寧、この母 もまたいかにも土佐藩士の娘らしい、山内一豊の妻のような良妻賢母であったと伝えられています。
そんな両親の下に生まれ育った津田永忠は、早くから「その才は国中に並ぶ者無し」と光政に言わしめるほどの逸材でありました。津田永忠が父左源太とともに 江戸にあがったのは児小性として光政に仕えはじめた承応2年、西暦1653年のことでした。以後、寛文年間までの十数年間、永忠は光政の参勤交代に伴って 1年おきに江戸に上っています。少年永忠の目に映った江戸の町はどんな様子だったのでしょう。江戸市中を焼き尽くした明暦の大火、その前後の江戸の町中を 父に連れられ、あるいは光政に従い、興味津々、つぶさに見て回ったことでしょう。
また当時の岡山藩には儒学者として高名であった熊沢蕃山 おり、その蕃山と夜を徹し語り明かした感激を、永忠は日記に書き残しています。多感な少年期におけるこの江戸での体験は、おそらくその後の永忠の人格形成 やあるいは彼が関わった多くの仕事に多大な影響を及ぼしたのではないでしょうか。
そしてこのときからおよそ40年後の元禄年間、後楽園の完成した頃、岡山藩は池田綱政、津田永忠の二人によって吉備二千年の歴史の中で、文化的、精神的におそらく最も光り輝いた一時期を迎えることになります。
▼現存する永忠の事績
時代は少し前後しますが、永忠が関わったと伝えられる仕事から現存する事績を順に拾ってみましょう。まず、我が国の庶民教育史に燦然と輝く備前市の閑谷学校。備前焼の赤瓦が美しい講堂は国宝、その他の建造物も国の重要文化財に指定されています。
光政引退後の一時期、永忠はここから400メートルほど奥まったところに静かに暮らしていました。そして日生大多府島の開港、300年の風雪に耐えた石積みの波止が残っており、国の登録文化財に指定されています。
備前市穂波には中国周の時代の祖税方にならった井田、ここには幕府の儒学者山田方谷の碑文を刻んだ石碑が建てられています。
そしてやはり儒教の様式にのっとって作られた和意谷の池田家墓所。壮大な構想に基づく田原井堰とその掛樋。吉井川と旭川をつなぐ運河としても機能した倉安川用水とその水門跡。
岡山の城下町を水害から守った百間川と一の荒手。そして堤は延々児島湾まで続いています。そして岡山市円山の山裾に建てられた曹源寺と、やはり永忠が関わったと伝えられる池泉式庭園。そのやや奥に築かれた正覚谷の池田家墓所には綱政の墓があります。
備 前一宮の吉備津彦神社社殿前の手水鉢には、永忠の信頼厚く数々の難事業を共に成し遂げた石工河内屋治兵衛の名も刻まれています。そして元禄以後、長く岡山 藩財政を根本から支える力となった1900町歩にも及ぶ広大な沖新田の干拓田。ここには独創的な干拓事業の技術的な裏付けとなった無数の樋門跡が今なお児 島湾の波打ち際に多数残されています。
300年後の今日でさえ、これら一連の仕事の並外れた構想力とスケールの大きさ、緻密な計画性、さらにはそれを支えたであろう情念の熱さ、大きさに私たちはただただ圧倒されるばかりです。恐らくこれらの仕事の背景には、その時代を生きる人々のためだけでなく、後に続く人々への祈りにも似た熱いメッセージが込められていたのではなかったでしょうか。
後楽園の作庭を発意した池田綱政、そしてそれを指揮した 津田永忠。二人の思いはもしかしたら全くかけ離れたものであったのかもしれません。しかし、後楽園のこの美しい庭園空間は高い精神性と芸術性を維持しつつ、300年を経た今日もなお、訪れる多くの人々を魅了してやみません。