岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

岡山藩郡代・津田永忠 略年譜

「知行合一」編集室 備前老人・彩古斎多楽 編

この年譜は、柴田一著『津田永忠(上・下)』 、永山卯三郎著『池田光政公伝』『岡山県史』、谷口澄夫著『岡山藩』『池田光政』 、山陽新聞社刊『岡山県大百科事典』、『池田光政日記』『津田家奉公録』 等を参考に、新たに作成したものです。(初稿2008.5.25)



西暦1640年
寛永17年

岡山藩士津田佐源太の第六子として岡山城下弓之町に生まれる。母は於寧、幼名又六。


津田永忠の履歴と主なできごと
永忠の曾祖父左京の本国は尾張。津田家の家系は、織田信長と同じ桓武平氏の平資盛の子の親真を遠祖とし、その第15代出羽守信勝がはじめて津田を名乗ったという。信勝の子が左京亮政景で初め織田信長に仕え、信長の死後池田信輝に召し出され、つづいて池田輝政に仕え、三河吉田で知行五百石をもらったとある。関ヶ原の戦の後は隠居して友心と名乗り、輝政(播磨52万石姫路城主)の祐筆をつとめている。元和4年(1618)死去。

その他
4月、江戸城本丸落成し、家光これに移る



西暦1653年
承応2年

齢 14


津田永忠の履歴と主なできごと
2月25日、岡山藩主池田光政に謁見、30俵4人扶持で児小姓となる。父佐源太とともに江戸に赴く。

その他
5月、備前洪水。伊木長門邸川筋石垣崩れる
12月、光政嫡子綱政(1638~1714)が元服



西暦1654年
承応3年

齢 15


津田永忠の履歴と主なできごと
7月、江戸より帰国
7月19日、備前一帯が大洪水(流失家屋4000戸)に見舞われる
藩主光政は帰国途上でこのことを知り、津田重二郎を先発させ、「一人の飢人なきように」と指示する
11月、妻勝子の母である天樹院(千姫)より御城銀3千貫(4万両、10年賦)を借り、飢人救済にあてる

その他
6月、玉川上水竣工する
7月、光政長女奈阿子姫、本多家に嫁ぐ
岡山藩、地方知行制度を大改革する
郡医者の制を設け、諌箱を設置する



西暦1655年
明暦元年

齢 16


津田永忠の履歴と主なできごと
藩主光政の御側不寝番をしていて不覚にも居眠り。夜半、光政より「いま何時か」と尋ねられるが、「眠っていて承知せず」と即答。夜明け役目を終え平然と座を立つ。その姿を見て光政、本来は厳しく咎めるべきであるにもかかわらず「(将来)事を成すべき男」との感想を漏らし、そのまま役目にとどめる。

その他
12月、宇喜多秀家(1572~)八城島にて死去する



西暦1659年
万治2年

齢 20


津田永忠の履歴と主なできごと
4月、児小姓仲間横目役となり主に典籍、薬餌等のことをつかさどる
6月、御書物奉行を命じられる

その他
正月、上道郡金岡新田の命が下る



西暦1660年
万治3年

齢 21


津田永忠の履歴と主なできごと
10月、新知150石を下賜される。元服して重二郎永忠と名称する

その他
10月、光政、鏡石神社を造営。仏師浄慶の孝行を賞する



西暦1662年
寛文2年

齢 23


津田永忠の履歴と主なできごと
8月、徒士頭となり知行250石に加増。
徒士20人を預かり、内山下に屋敷を下賜される。

その他
11月、和気郡井田村、完成する
12月、上道郡松崎新田、完成する



西暦1664年
寛文4年

齢 25


津田永忠の履歴と主なできごと
9月、大横目となり、知行300石に加増。徒横目3人、徒士20人を預かる。
10月、評定所列座を命ぜられる。このとき評定が終ってもだらだらと私話をつづける仕置家老たちに対し、永忠は末席から「(公務である)相談言が済みそうらはば、おのおの様お退出なされべくそうろう」と苦言。「あまりのこと」と家老たちが光政に不平を述べると、光政は「さても余がみるところに違わず、思うことを憚りなくいう者なりと思いたりしに、はたして然なり」と答えたという。
11月、評定所で百姓訴訟の裁判を命じられる
同月結審し、光政に名裁判ぶりをほめられる。



西暦1665年
寛文5年

齢 26


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、光政より池田家墓所の京都よりの移転につき、墓所候補地の見立を命じられる

その他
水戸光圀、領内の社祠3千社を淘汰する



西暦1666年
寛文6年

齢 27


津田永忠の履歴と主なできごと
10月、岡山城内石山に仮学館の開設を命じられ、熊沢蕃山の弟、泉仲愛とともに文教をつかさどる
12月、光政に従い墓所候補地を巡見。墓所を脇谷村に、(閑谷)学校を木谷村に置くことを決める

その他
2月、天樹院死去する
大阪石工河内屋治兵衛、池田家和意谷墓地造営のために永忠に招かれ岡山に移る



西暦1667年
寛文7年

齢 28


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、儒教様式にもとづく池田家和意谷墓所の造営を命じられる
2月、国中枡改めを御用を命じられる

その他
岡山藩、淫祠・小社を廃し代官所ごとに寄宮を設けさせる
日蓮宗不受不施派を厳しく弾圧する



西暦1668年
寛文8年

齢 29


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、江戸芝御堀普請のた江戸に上る。4月帰国
4月、和気郡木谷村(後の閑谷村) をはじめ領内郡ごとに 123ヶ所の手習所の取り立てを命じられる
6月、大横目役の任を解かれ、泉仲愛とともに藩主・家老・諸役人に対するご意見番役を命じられる
※藩校・手習所・和意谷及び諸記録のことを総括する。
承応3年水害以後の記録、藩士の家譜等を編纂する
9月、池田家和意谷墓所が完成
12月、泉仲愛とともに藩校国学の新築を命じられる

その他
光政、大老酒井忠清に幕閣の専権を批判する諫言書を提出する



西暦1669年
寛文9年

齢 30


津田永忠の履歴と主なできごと
5月、かつて熊沢蕃山から聞いた川除の法により旭川左岸の竹田・竜の口下間に大荒手を築き洪水対策とすることを提言する
7月、岡山藩学校完成、蕃山を招き開校式を行う。学校奉行屋敷を学校の敷地内に下賜される

その他
7月、学校領として2000石を付ける
6月、池田大学、京橋の雁木が二つ残るとき水が荒手堤を越すようにすべしと大荒手の築造を命じる



西暦1670年
寛文10年

齢 31


津田永忠の履歴と主なできごと
5月、和気郡木谷村の北端、延原に学校の建立を命じられる
冬、仮学校完成する。延原を改めて閑谷と称する。閑谷とは、閑静な山谷の意味
10月、和気郡友延新田に中国の故事にのっとった一公九民の収税法である井田の地割を命じられる

その他
800ヶ所に及ぶ溜池の整備等、児島郡の民政に大きな治績をのこした郡奉行石川善右衛門が死去する



西暦1671年
寛文11年

齢 32


津田永忠の履歴と主なできごと
10月、本多下野守忠平の室奈阿子(光政の長女)の湯沐料銀1千貫を借り受け、社倉米の制度を創設する

その他
2月、御野郡辰巳新田着工する



西暦1672年
寛文12年

齢 33


津田永忠の履歴と主なできごと
10月、学校奉行・評定所列座の任を解かれ、和意谷墓所・閑谷学問所・井田・手習所・社倉米の専管を命じられる。
閑谷学問所の学房、飲室が建てられる。父佐源太、物頭に起用される

その他
6月、光政引退し、綱政岡山藩主となる
10月、光政の生母福照院(家康の重臣榊原康政の次女)が死去する



西暦1673年
延宝元年

齢 34


津田永忠の履歴と主なできごと
5月、大洪水が発生し、岡山藩領内に甚大な被害をもたらす
7月、和気郡木谷村(後の閑谷村)への移住を命じられる
閑谷学問所の講堂を建立する。木谷村の地高279石余を学校田とする
手習所振興のために領内を巡回、領民に設立の趣旨を説いて督励する

その他
5月、京都大火、内裏炎上する



西暦1674年
延宝2年

齢 35


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、閑谷学問所の聖堂を建立する

その他
熊沢蕃山、書状の中で岡山藩の政治を悪政と決めつけ批判する



西暦1675年
延宝3年

齢 36


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、藩主綱政に飢民対策を献策
先の洪水以来の大凶作と飢饉で飢えに苦しむ領民救済のために自らの所管する手習所を施粥所として、手習所用米をもって施粥すべきことを献策、容れられて飢人8万5千人(正月から5月)に粥をほどこし、救済にあたる
9月、手習所を全面的に閉鎖、手習所にあった書籍類は閑谷に移す
熊沢蕃山、蕃山に対する岡山藩の冷遇を書状で非難し、永忠のはからいであると邪推する

その他
延宝元年の大洪水以来の大凶作のため領内に餓死者が続出する
正月、綱政、禁裏(御所)造営のため京都に上る。10月完成する
学校領2千石が5百石に削減される



西暦1676年
延宝4年

齢 37


津田永忠の履歴と主なできごと
藩財政の再建案(自分勝手作廻積目録・自分勝手簡略積)を藩に提出する

その他
河内屋治兵衛、御野郡福田村、和気郡東片上村に石樋を築き好評を得る



西暦1677年
延宝5年

齢 38


津田永忠の履歴と主なできごと
閑谷学問所講堂の屋根を瓦葺きとし、文庫を建立し、一応の完成をみる



西暦1678年
延宝6年

齢 39


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、服部与三右衛門とともに領内残らず巡見役を命じられる(4月より翌年末まで巡見)
9月、簡略の儀の詮議のために評定所列座を命じられる。
倹約の制定に参与する
◎春に進言した新田見立については、先ず永忠専管の社倉米を財源として行うよう命じられる
11月、光政夫人円盛院死去、和意谷埋葬の役をつとめる
◎この頃、上道郡沖児島湾干拓の大構想を示し、反対にあう

その他
7月、河内屋治兵衛、犬島で豊前守の墓碑を製作中、石番手代七右衛門に細工について難癖をつけられ、刃傷沙汰となる



西暦1679年
延宝7年

齢 40


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、上道郡倉田新田(約300ha)と倉安川用水の構想絵図を江戸にいた綱政に示し、許可される
2月、上道郡倉田新田(約300ha)の干拓工事に着手、8月、新田と新川完成する
8月、 永忠専管の社倉米を財源として牧(軍馬の飼育場)の取立てを命じられる
10月19日、光政帰国に際して、和気郡坂根村より舟で吉井水門、新川を通る。21日より高瀬舟通船する



西暦1680年
延宝8年

齢 41


津田永忠の履歴と主なできごと
5月、将軍家綱の死去に際し、京都所司代に使いするため岡山-京都間を4日で往復する
9月、藩主綱政から服部与三右衛門とともに長年の勤功を表彰され、
評定所列座を命じられ、屋敷を下賜される。
閑谷学校の経営に関する5ヵ条の意見書を提出する
12月、服部与三右衛門とともに領内巡見を命じられる



西暦1681年
天和元年

齢 42


津田永忠の履歴と主なできごと
8月、京橋、石造橋脚によって修復される



西暦1682年
天和2年

齢 43


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、服部与三右衛門とともに郡代に任じられ、知行500石に加増される
郡代に就任と同時に社倉米のお救い米としての運用方法を、藩営事業資金としても使えるように改める。
5月、前藩主光政、死去する。和意谷埋葬の役をつとめる
光政所蔵の図書、遺物衣服を閑谷学問所に納める



西暦1683年
天和3年

齢 44


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、藩士諸士の先祖書と現在の勤務書を編纂する
5月、母於寧が、11月、父佐源太が死去する。ともに和気郡吉田の奴久谷に埋葬する

その他
9月、岡山藩、百姓礼儀を定める



西暦1684年
貞享元年

齢 45


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、領内閘門・橋梁等のことをつかさどる
2月、邑久郡幸島新田(約560ha)の干拓工事に着手、9月完成する
閑谷学問所の聖堂を再建、備前焼の瓦で屋根を葺き大成殿と名づける
10月、御普請方・御鷹方を郡代支配とし、その後の大規模(沖新田)干拓に備えるか?

その他
2月、和気郡の庄屋揃って辞任願いを出す。永忠、差し戻しを命じる
3月、閑谷学問所の学校領が学校田とされる
7月、河内屋治兵衛の妻古万死去し、平井山(東山)に埋葬される
治兵衛、西幸西村に移住する



西暦1685年
貞享2年

齢 46


津田永忠の履歴と主なできごと
8月、国中御林御薮支配を命じられる。
その後の大規模(沖新田)干拓の用材確保に備えるか?
12月、上道郡沖新田の開発を取立てを絵図をもって進言。来春の着工を許可されるが、その後、重臣たちの反対に会い、着工中止を命じられる

その他
8月、熊沢蕃山、綱政宛にあてた書状のなかで岡山藩の郡方仕置改めを全面的に批判、津田永忠の罷免を進言する



西暦1686年
貞享3年

齢 47


津田永忠の履歴と主なできごと
光政を祀る芳烈祠を建立する



西暦1687年
貞享4年

齢 48


津田永忠の履歴と主なできごと
◎この年、百間川の大水尾に至るまでの河岸堤防・潮止め堤・河口水門まで造営される?
12月、御後園の造営に着手する
「遊休の園として簸川(ひのかわ:俗称を京橋川)の東、城の北に石をたたみ奇樹を植え水をせき入れて「山水田野の気色を居ながらにして見れるよう移し」た綱政の庭園の土木工事が12月16日よりはじまる。
◎この頃、坂根堰(大用水の取入口)の築造と邑久郡大用水が開削されるか?

その他
12月、江戸の昌平坂に孔子廟落成する
7月、近藤七助、郡方の普請見分の御用を命じられ、永忠の下で元禄9年までこの役を勤める



西暦1688年
元禄元年

齢 49


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、高浜新田を修築する
この頃、友延新田の下井田が完成する



西暦1689年
元禄2年

齢 50


津田永忠の履歴と主なできごと
6月、綱政、はじめて御茶屋(御後園)にお成り。
7月、この庭園の田に早苗を植え、民の少年に銭を賜う



西暦1690年
元禄3年

齢 51


津田永忠の履歴と主なできごと
御後園に1町7反5畝(5273坪)を添地。3月、この添地を総囲いし薮を付け出し、馬場を設ける
9月、茶屋作事の大工初めが行われる
◎この頃、和気郡益原用水が完成する(田原井堰の修築、田原用水の延長工事も一部完成か)

その他
8月17日、熊沢蕃山、古河において死去する
10月、水戸光圀隠居
12月、江戸の昌平坂に孔子廟落成する



西暦1691年
元禄4年

齢 52


津田永忠の履歴と主なできごと
6月、1500石に加増され、郡奉行四人を組下に加えられる
7月、御茶屋にて綱政より料理を賜い、笠を拝領する。
8月、内山下の水野助三郎の跡屋敷を賜わり移り住む
9月、上道郡沖新田の取り立てを許可される
貞享2年に一度取り立てを許可されながら、重臣たちの反対にあい延期を命じられていた
◎同月、永忠一人の判で大阪の鴻池、京都の両替屋より工事資金として銀5百貫目(1万石相当)を調達する
大新田工事に必要な入用銀調達のため、岩井喜兵衛を上方に派遣、お城御用の借銀の返済に支障をきたすので別口で借銀を申し込み、永忠一人の判で大阪の鴻池、京都の両替屋より銀5百貫目(約1万石相当)を調達する。現代の貨幣価値に換算すれば50~100億円か



西暦1692年
元禄5年

齢 53


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、上道郡沖新田の干拓工事に着手する
7月、上道郡沖新田の総堤工事(約12km)を完了する
『池田家履歴略記』には、元禄5年1月21日沖新田鍬初め、6月23日潮留でき、7月19日総廻り堤完成とある。
惣堤長は6千518間(11.85km)、工事に要した延人数は103万8千867人、工事に要した経費は米にして2万679石余、銀にして964貫8百匁。新田総畝数は1918町余(約1902ha)、生産高は1反に1石8斗、総生産高は、3万2千850石余(約4927.5t)としている。
現代の貨幣価値に換算すると、工事総額は100~200億円。この新田から得られる毎年の総生産額は300~600億円となる。以来、上道郡沖新田は300年以上にわたってこの地域の人々の生活のみならず、岡山の地域経済そのものを支えてきたと言っても過言ではない
◎この頃、沖新田の干拓にあわせて祇園大樋・祇園用水などを整備する?
◎あわせて砂川の河道21kmを改修開鑿し百間川まで延伸する?
河口部に 二つの荒手を築き塩水の上流への遡上を防ぐとともに、下流の荒手の南端に2ヶの樋門を築き沖新田東部の灌漑用水とした

その他
普請奉行は田坂与七郎・近藤七助、横目は鈴木又兵衛・石津八兵衛



西暦1693年
元禄6年

齢 54


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、京橋・中橋・小橋・下馬橋修理の作事奉行を命じられる
7月、番頭に抜擢され、「奉公人のよきあやかりもの」と評判になる
同月、藩主綱政の命により重二郎を佐源太と改名する。御家中簡略奉行を命じられる
8月、一部の重臣たちの中傷によって藩主綱政の信任薄らぐ



西暦1694年
元禄7年

齢 55


津田永忠の履歴と主なできごと
4月、評定所移転の作事を命じられる。
9月、沖田神社遷宮の役をつとめる。
◎この頃、田原井堰を修築と(小野田川の石造掛樋、百間の樋)田原用水の延伸開鑿工事に着手か

その他
岡山藩江戸屋敷に能舞台完成する
備中松山城主水谷家断絶のため浅野内匠頭の城請けとりにあたり、使者として備中松山に赴く



西暦1695年
元禄8年

齢 56


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、牛窓湊の石波止(長さ360m余)の築造を絵図をもって建言し、許可される。
5月、重臣の間に永忠を郡代から罷免すべきとの気運が高まり、仕置家老日置猪右衛門に書状で綱政への取りなしを依頼する

その他
岡山城内に能舞台完成する



西暦1696年
元禄9年

齢 57


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、綱政に命じられ、備前一宮(吉備津彦神社)の造営奉行をつとめる。
6月、釿初めを行う
◎この頃、田原井堰と田原用水の延伸開鑿工事完成する



西暦1697年
元禄10年

齢 58


津田永忠の履歴と主なできごと
正月、備前一宮の作事を終え、遷宮式を執行する
◎幕府に差し出す国絵図の作成を命じられる

その他
8月、津山藩主森氏断絶する。永忠、備作国境警備に赴く
10月、綱政、永忠専管の財源より護国山曹源寺の造営を命じる



西暦1698年
元禄11年

齢 59


津田永忠の履歴と主なできごと
◎和気郡多多府島に大漂湊の築造を命じられる
◎閑谷学問所の講堂の大改築に着手する

その他
福山藩主水野家断絶
6月、永忠、備中領分警護のため出張する



西暦1699年
元禄12年

齢 60


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、福山検地元締役を命じられる。
5月、福山に至り指図する

その他
6月、護国山曹源寺が完成。罪人63人に大赦が下される



西暦1700年
元禄13年

齢 61


津田永忠の履歴と主なできごと
2月、「福山検地総目録」を幕府老中にに差し出す。3月、江戸城に招かれ、老中より時服を下賜される
同月、閑谷学問所を藩経済から分離し、学校経営基盤の独立安定をはかる
学校田小作63戸を移住させ、田21町7反余、畑7町6反余、学校林71町3反弱、計101町6反は総て閑谷学校所有とし、移封や国替えなどの不測の事態にも影響されず末永く存続できるよう学校経営基盤の独立安定をはかる

その他
幕府より岡山藩に、相州酒匂川の普請手伝いを命じられる



西暦1701年
元禄14年

齢 62


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、浅野内匠頭切腹、播州刈屋城明け渡しにあたって片上村に赴く
4月、永忠配下の兵を片上村へ召集、万一の事態に備える
◎この年、閑谷学問所の講堂落成。孝子像を鋳造し、避火山・石塀・鶴鳴門をつくる

その他
4月、永忠、城の明け渡しに立ち会った木下肥後守より丁重な挨拶を受ける



西暦1702年
元禄15年

齢 63


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、永忠のよき理解者であった泉八右衛門(仲愛、熊沢蕃山の弟)死去する
◎この年、閑谷学問所、芳烈祠(閑谷神社)の東に椿山を築く。椿山に光政の髪爪歯を納める

その他
7月、台風洪水、高潮おこり甚大な被害を蒙る
12月、赤穂浪士、吉良邸に討ち入る



西暦1703年
元禄16年

齢 64


津田永忠の履歴と主なできごと
12月、1500石に加増され、郡代を解任される
綱政より、郡代の解任と、閑谷・和意谷・社倉米の役はそのままに閑谷へ転居休息し、養生・長生きするよう直接申し渡される。井田のことが洩れていたので確認したところ、井田はそのまま永忠が管理するよう命じられる



西暦1704年
宝永元年

齢 65


津田永忠の履歴と主なできごと
3月、知行・家屋敷を返上し隠居を嘆願。許され、閑谷に移住する
学問所附属の閑谷新田の高二百七十石のみを拝領、前藩主光政遺言の閑谷学問所・和意谷・井田・社倉米の役はこれまで通りとすることを許される
◎この年、光政の金銅像を造る。



西暦1705年
宝永2年

齢 66


津田永忠の履歴と主なできごと
6月、百間川の排水(河口水門の唐樋?)について小仕置に意見書を差し出す



西暦1706年
宝永3年

齢 67


津田永忠の履歴と主なできごと
7月、四女マキ誕生する
冬、病気になり岡山城下の永忠三男丹下宅にて養生する




西暦1707年
宝永4年

齢 68


津田永忠の履歴と主なできごと
2月5日、丹下宅にて死去する
和気郡吉田村奴久谷の津田家墓所に葬られる

その他
8月、備中備前、台風洪水、高潮おこり甚大な被害を蒙る
9月、御後園に能舞台が落成する



西暦1896年
明治29年

後楽園内に津田永忠顕彰碑、建立される




西暦1910年
明治43年

11月、明治天皇より後楽園で津田永忠に従四位が追贈される




西暦1996年
平成8年

「岡山藩郡代津田永忠顕彰会」設立


津田永忠の事績の顕彰と居宅跡に記念碑を建立するため「岡山藩郡代津田永忠顕彰会」設立される




西暦2007年
平成18年

文化庁へ「世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書」を提出


2月、津田永忠の事績を世界遺産にしようという市民運動おこる。
9月、岡山県と関係市町村より文化庁へ「世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書」を提出。
資産名称は「近世岡山の文化・土木遺産群ー岡山藩郡代津田永忠の事績」



「知行合一」編集室 備前老人・彩古斎多楽 編

この年譜は、柴田一著『津田永忠(上・下)』 、永山卯三郎著『池田光政公伝』『岡山県史』、谷口澄夫著『岡山藩』『池田光政』 、山陽新聞社刊『岡山県大百科事典』、『池田光政日記』『津田家奉公録』 等を参考に、新たに作成したものです。(初稿2008.5.25)