岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

地域開発事業

倉安川の開鑿と上道郡倉田新田の開発
大用水の開鑿を伴った邑久郡幸島新田の開発
三番用水などの開鑿を伴った上道郡沖新田の開発
田原井堰の築造を伴った磐梨郡の田原用水、和気郡の益原用水の開鑿
竹田・中島の荒手の築造を伴った上道郡百間川のなどの築造

文化事業

代表的大名庭園後楽園の築庭
藩主池田家の墓所である護国山曹源寺(正覚谷墓所は国指定史蹟)
閑谷学校(国指定史蹟)の講堂(国宝)・聖堂(国指定重要文化財)・芳烈祀(国指定重要文化財)・石塀・鶴鳴門(国指定重要文化財)など
備前一宮吉備津彦神社

奴久谷・津田永忠墓所

津田佐源太永忠のことを、地元の人はみな親しみをこめてエイチュウさんと呼びます。
そしてその遺徳を偲んで、彼の築造した幸島新田や沖新田、和気、備前から、
いまなお永忠さんの眠っている和気町吉田奴久谷の墓を訪れる人が絶えないといいいます。
津田家墓所は国の史跡、今回の申請遺産の一つです。


和意谷の池田家墓所同様、儒教様式の墓所となっています。

寛文6年(1866)の晩秋、光政は永忠の案内で墓所候補地の検分のため、片上から木谷村に入ります。木谷村の北端延原の幽邃閑静な景観を愛で、ここを学問所(後の閑谷学校)にすることを永忠に命じ、そしてさらに進んで奴久谷の吉田に一泊、翌朝はさらに山奥の脇谷村の山(現在の和意谷敦土山)に向かっています。

それから数年後の寛文12年(1672)10月、永忠は江戸において、藩主の座を綱政に譲り引退したばかりの光政から、評定所列座の任を降り、和意谷墓所と閑谷学問所、備前穂浪の井田、手習所(123ヶ所)、社倉のことに専念するよう命じられ、あわせて閑谷への移住を勧告されます。

その理由を光政は、「才は国中に双ぶものなし。使いよう悪しくば国の災いにならん」と語ったと伝えられています。
光政の目から見て、「凡愚としか思えない息子の綱政には、永忠ほどの才能はとても使い切れないであろう。ここは城下から遠く離れた田舎に引き籠らせ、実質的には引退させるにかぎる」と考えたというのです。

それが事実だとすればひどい話のようにも思えますが、実はこのころ光政は、改革者の宿命というか、社寺淘汰や学校・手習所の設置などの様々な改革政策の反動で、表立った声にはなりませんがやること為すことのすべてにケチのつく状況に陥っていたと言います。一部の領民の間からは怨嗟の声がふつふつと湧き上がり、また熊沢蕃山や一部の重臣たちからは誤解にもとづく非難がひそかに囁かれ、さらに幕府の重臣からも様々に干渉され「謀反の心あり」とさえ言われる逆境にあったと言います(『池田光政公伝』)。

光政の命を受けてのことであったとはいえ、改革の忠実な実行者であった永忠に対する批判とやっかみの声もまた、お城や領内に澱(おり)のように溜り淀んでいたのかもしれません。そうした空気を和らげるには、光政自身も引退し、永忠もまた第一線から退かせ、不平不満のガス抜きをはかるしかないと判断した上での永忠への閑谷移住の申し渡しであったのかもしれません。

永忠が、この地を津田家の墓所に選んだのはいつのことだったのでしょうか。
長男猪之助の亡くなった延宝4年(1677)7月のことでしょうか。それとも、天和2年(1882)5月に光政が亡くなり、翌天和3年、5月に母お寧が、11月に父佐源太が相次いで亡くなった頃のことでしょうか。
おそらく天和3年の両親の亡くなった前後に、光政との想いで深いこの奴久谷吉田の地を墓所と定め、両親を埋葬し、自らの骨も埋めるべく墓所を築いたのではなかったでしょうか。
しかし永忠は感傷に浸る間もなく、同じ天和3年の12月には、幸島新田の取立てを服部与三右衛門を通じて具申し、翌春許可されています。天命なのか、この頃の永忠もとにかく多忙でした。

お墓は、いつお参りしてもきれいに清掃されています。説明板脇のノートから、決して多くはありませんが訪れる人の絶えないことが分かります。



三方を山に囲まれ、南に向かってゆるやかに段々畑の連なる奴久谷(ぬくだに)は、その名の通り、いかにも日当たりのよいおだやかな空間です。私たちの祖先は、稲作をはじめたごく初期の頃、このような日当たりの良い谷を流れる沢を小石や草や土で堰き止め、土地を均し畝を築いて水を引き入れ、ささやかに稲をつくりをはじめたといいます。

永忠はよほどこの土地が気に入っていたのでしょう。
地元の方の話によると、奴久谷の名は永忠自らが名付けたということです。永忠は墓所を築くとともに、谷の奥山から流れ下った水が向きを変え南流するその脇の、南に向かって開けた見晴らしのよい高台に別邸を築いています。そしていかにも永忠らしいのが、別邸から望む北東の山の中腹、岩肌の露出したところに、年に一度、田植えの時期にだけ姿を現す幻の大滝を作っていることです。

山裾から2時間ほどかけてのぼった崖の上には、二つの大きな灌漑用の溜池が穿たれています。その底樋を抜くと高さ数十メートルほどの断崖を溜池の水が滝となって流れ下り、下流の田を潤すといった仕掛けです。滝からの谷川も石垣で固められ、砂防工事らしきものが施してあります。この一連の灌漑施設の施工で、奴久谷の稲の収量は大幅に増収安定したと言います。当然のことながら、地元の人はいまでも永忠を神のように崇めています。そのお陰で津田家の墓所はいつも清掃が行き届くというわけです。

幻の大滝は、永忠の別邸の裏庭から真正面に眺められる位置に設えられています。というよりもこの滝が借景となるよう別邸とその裏庭をつくったという方が正確かもしれません。
慶長16年(1703)、藩主綱政から和意谷墓所と閑谷校、井田などの専管を命じられた津田永忠は、郡代の役職と与えられた1500石を返上し、270石だけを貰い受け閑谷に引退しています。
おそらく、別宅の庭からこの滝を眺めながら光政との想い出や、仁政に基づく理想の国づくりのために情熱を注いだ数々の事業の想い出にふけりながら、静かな晩年の一時を静かに過ごしたいと願っていたのでしょうか。あるいは永忠のことですから次なる構想を練っていたかもしれません。いずれにせよ、隠居生活とは言いながら、いかにも永忠らしい、スケールの大きな暮らしぶりではありませんか。




奴久谷の景観的な特徴

『景観と構造』という本の著者である樋口忠彦氏は、三方を山に囲まれ、山裾に向かってゆるやかな傾斜で広がっていく奴久谷のような空間を「水分(みくまり)神社形」と分類し、古来より日本人がもっとも愛した典型的な心象空間の一つであるとしています。
農耕が生活の基盤となって以来、私たちにとって田畑を潤す灌漑用水の確保は常にきわめて重要な問題でありつづけました。山から流れ出てくる水口(みなくち)は、いまだ何ものにも穢(けが)されていない清浄な水の地として信仰の対象でもあったといいます。

考えてみれば、永忠さんの67年にわたる生涯のほとんど大半は、民のための治水と利水に捧げた人生であったように思えます。その永忠さんの居宅と墓所が信仰の対象としての水口に設けられているのは、単なる偶然でしょうか。そうではないような気がします。彼のことですから、そこにも何らかの意図が隠されているようにも思えます。
永忠さんに、 そうした治水と利水の大切さと、水をめぐる空間(環境や景観)の持つ意味を教えたのは熊沢蕃山だったのでしょう。

開発を指向しながらも、永忠さんの事業にはどれも人々の信仰や生活への細やかな気配りが感じられます。
そういえば、滝もまた古来からの信仰の対象でした。永忠さんの眠る奴久谷が、いつまでも穢れることのない清浄の地として、また、私たち岡山に住む者のこ心の拠り所(聖地)として存在しつづけるよう、この奴久谷の地を子々孫々にわたって護っていくことは、環境という大きな問題を抱える時代を生きる私たちにとって、きわめて今日的な意味を持つ大切なことであるような気がしてなりません。

地元の方の話によると、永忠が手がけた事業の恩恵を受ける沖新田などの人たちがこの墓所にお参りすると、三百年の時を経たいまでも、涙ながらに墓所に語りかけ、手を合わせて帰るといいます。
毎年桜の咲く頃、地元の人たちによって永忠祭りが、また6月末には幻の滝落としも行われているとも聞きます。

交通の便は悪いですが、できれば車ではなく歩いて訪れたい場所です。
JR吉永駅からのんびり歩いて1時間ほど、JR和気駅からは1時間半ほどの距離です。



附津田永忠墓は、藩主光政・綱政の2代に仕え、郡代という重職に就いて藩政の中枢で活躍し、また土木役人として最高の技術と資金を注ぎ込んで数々の土木事業を手がけた異才津田永忠の墓所です。

津田家の墓所には各7つの石塔・土塚があります。