岡山のめざす世界遺産

プロローグ

稲の渡ってきた道

最近の考古学的な発掘成果から、岡山の稲作文化の歴史は相当に古く、3千数百年以前、 あるいは数千年以前にまで遡ることが明らかになってきています。

たとえば瀬戸内海の入り海の一つである児島湾岸ぞいの岡山市彦崎貝塚からは、つい最近の発掘調査で、縄文時代前期に相当する約6千年前の地層からイネ科植物の葉などの細胞成分を示すイネのプラントオパールがこれまでになく多量に、しかもまとまった形で見つかっています。見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないかと目されています。

ちなみに、稲の食物利用の歴史もまたこれまでに考えられていた以上に古く、古代オリエントにおける小麦の利用同様、その起源は1万数千年前にまで遡ることが分かってきています。もちろん当初は野生種の稲の実を拾い、あるいは摘み取り、原初的な土器で煮炊きし食用したものと思われます。しかし8千年から9千年前には、中国の揚子江中流域で灌漑をともなう農耕がはじまったことが明らかになっていますし、また、湖南省の城頭山遺跡からは、世界最古といわれる7千数百年前の、周囲に環濠をめぐらした10万平方メートルにもおよぶ水田遺構が発掘されています。

なかなか想像しにくいのですが、いまから2万年ほど前の地球は極寒期に見舞われており、平均気温は現在より5度から10度ほども低かったようです。その頃の海水面は現在より120メートルほども低く、日本列島はもちろん大陸と地続きでした。私たちの瀬戸内海は一面の草原で、備讃瀬戸を分水嶺に大阪湾に向かって大河が流れ下り、数万年前にはナウマン象といわれる小型の象が闊歩していたといいます。事実、瀬戸大橋のたもとの下津井沖では、一時期、化石化したナウマン象の骨が漁船の底引き網にしばしば引っかかり、引き上げられたといいます。引き上げられたナウマン象の骨のいくつかは、倉敷美観地区の中央に位置する倉敷考古館の2階展示室で見ることができます。

2万年ほど前の極寒気から、1万2千年ほど前の寒のぶり戻しの一時期を経て、しだいに温暖化がすすみ、縄文海進といわれる海面上昇が数千年にわたって続きます。草原であった瀬戸内海にもしだいに潮が満ち、2万年前に120メートルほども低かった海水面は1万年ほど前には40メートルほどの低さに、そしていまからおよそ6千年ほど前、北半球の中高緯度の地域の多くがもっとも温暖な時期をむかえた時期の海水面は、現在よりもむしろ3メートルから5メートルほども高くなっていたといいます。

この急激な気候変動にともなう海面上昇は、おそらく当時の人々の暮らしに深刻な影響をおよぼしたことでしょう。揚子江の中・下流域で稲を栽培、あるいは食用していた人々が、しだいに迫り来る海面の上昇に危機感をおぼえ、適地を求め海に漕ぎ出し、その内の幾人、あるいは何家族かが貴重な稲粒を抱え、私たちの瀬戸内海に渡ってきたという想像は、もしかしたら許されるのかもしれません。

事実、当時の人々にとっては、照葉樹林の生い茂る陸上よりも、柳田國男が言うところの「海上の道」を通じた移動の方がはるかに容易で、海上の道による当時の移動と交流のスケールは、現在の私たちが考える以上に大きく広範囲であったのではないでしょうか。
最近の考古学的成果は、そのことをしだいに明らかにしつつあるようです。

(続く)

岡山藩郡代 津田永忠 の事績を岡山世界遺産に