岡山後楽園
ここ岡山城の東北隅
旭川をひかえて水瀞(すいせい)湲(かん)たり
大君、園をその境に修め
政(まつりごと)暇日に渉って恬(てん)を養う
園は舊(ふる)きに依りて稲畛(いなみ)を置き
亭在るに随(まか)せて茅簷(ちえん)を以てす
苟(かりそめ)に田舎、野店(のだな)の状を模して
石泉花木の景を写す
天下の三名園と称され、四季折々に美しい姿を見せる後楽園。
江戸時代を代表する林泉回遊式の大名庭園として、昭和27年、国の特別名勝に指定されています。
つい最近、ミシュランの観光ガイドで三ツ星がつきました。
その広々とした空間美がイングリッシュガーデンを思わせたようですが、英国式自然庭園の本家本元が日本の大名庭園であることを知る人は少ないようです。
この後楽園の着工は貞享4年(1686)12月、岡山藩池田家の歴史を伝える『池田家履歴略記』には、
「曹源公(綱政)御有休の園をひらかれんため、簸川(俗に京橋川という:現在の旭川)の東、御野郡上道郡の内にて、御野郡は浜村の内、上道郡は国富村の内、城北にあたってその地を卜せられ、津田重次郎諸事奉行す」
とあります。
政務に疲れた殿様が心身を癒すため、故事にならって稲見の田を設け、亭舎は在るにまかせて茅や篠竹で作り、田圃の中の農家や野にある店を模し、巨石や銘石を配し、種々の花々や木々の風景を写し、安らぎの空間としたようです。
一応の完成をみたのは、今からおよそ300年前の元禄13年、西暦1700年のこと。当時はただ単に「御庭」「御後園」とか、「御菜園場」「御茶屋」と呼ばれていたようです。
この庭園の作庭を思い立ったのは、当時の岡山藩主池田綱政(1638〜1714)。
作庭にあたって、その財源までふくめて総合指揮・プロデュースしたのは、岡山藩郡代津田永忠(1640〜1705)でした。
ちなみに永忠が尊崇してやまなかった前藩主の池田光政(1609〜1682)は、わざわざ高いお金をかけて庭園など造らなくても、野に出て煙草をふかしながらのんびり釣を楽しんだり、いさましく野山を駆け回る鷹狩りの方がよほど息抜になるといった質実剛健の殿様でした。
後楽園は、冒頭にご紹介した一文からその作庭意図をうかがえるように、当時ののどかな田園風景を現在にそのまま伝える貴重な文化資産です。
池は当時の農業用の溜め池、曲水は岡山平野に網の目のように張り巡らされた灌漑用の農業用水、園内各所に設えられた巨石や曲水の石垣護岸や底樋、樋門、土橋、石橋にいたるまで、津田永忠たちが、領民の自立と暮らしの安定を願って心血を注いで築き培った農業土木技術のエッセンスがそのままに活かされています。
それはまた、吉備(あるいは東アジア)の悠久の稲作文化を語るに欠かせない典型的な農業原風景であるといっても過言ではないでしょう。
ただ単なる観賞用の庭園としてではなく、そこにこめられた作庭の精神や技、そして私たち米を主食とする東南アジアの民にとって稲作農業とは何か、その歴史にまで立ち至ってこの名園への理解を深めていただければ幸いです。
中央に見える田は、中国は周の時代の「一公九民」の収税法に倣った井田(せいでん)のミニチュアです。周りの八枚の田は私、真ん中一枚の田が公、一枚の公田を共同で耕し、その収穫のみ、全収穫量のちょうど一割を納税したと伝えられます。備前市には、ほぼ実物大の井田遺構が現存しています。(詳しくは井田遺構のページをご覧ください)
井田の奥に見えるのは茶畑で、少し苦みが強いようですが、いまも江戸時代の茶の味覚がそのままに味わえます。
旭川をひかえて水瀞(すいせい)湲(かん)たり
大君、園をその境に修め
政(まつりごと)暇日に渉って恬(てん)を養う
園は舊(ふる)きに依りて稲畛(いなみ)を置き
亭在るに随(まか)せて茅簷(ちえん)を以てす
苟(かりそめ)に田舎、野店(のだな)の状を模して
石泉花木の景を写す
天下の三名園と称され、四季折々に美しい姿を見せる後楽園。
江戸時代を代表する林泉回遊式の大名庭園として、昭和27年、国の特別名勝に指定されています。
つい最近、ミシュランの観光ガイドで三ツ星がつきました。
その広々とした空間美がイングリッシュガーデンを思わせたようですが、英国式自然庭園の本家本元が日本の大名庭園であることを知る人は少ないようです。
この後楽園の着工は貞享4年(1686)12月、岡山藩池田家の歴史を伝える『池田家履歴略記』には、
「曹源公(綱政)御有休の園をひらかれんため、簸川(俗に京橋川という:現在の旭川)の東、御野郡上道郡の内にて、御野郡は浜村の内、上道郡は国富村の内、城北にあたってその地を卜せられ、津田重次郎諸事奉行す」
とあります。
政務に疲れた殿様が心身を癒すため、故事にならって稲見の田を設け、亭舎は在るにまかせて茅や篠竹で作り、田圃の中の農家や野にある店を模し、巨石や銘石を配し、種々の花々や木々の風景を写し、安らぎの空間としたようです。
一応の完成をみたのは、今からおよそ300年前の元禄13年、西暦1700年のこと。当時はただ単に「御庭」「御後園」とか、「御菜園場」「御茶屋」と呼ばれていたようです。
この庭園の作庭を思い立ったのは、当時の岡山藩主池田綱政(1638〜1714)。
作庭にあたって、その財源までふくめて総合指揮・プロデュースしたのは、岡山藩郡代津田永忠(1640〜1705)でした。
ちなみに永忠が尊崇してやまなかった前藩主の池田光政(1609〜1682)は、わざわざ高いお金をかけて庭園など造らなくても、野に出て煙草をふかしながらのんびり釣を楽しんだり、いさましく野山を駆け回る鷹狩りの方がよほど息抜になるといった質実剛健の殿様でした。
後楽園は、冒頭にご紹介した一文からその作庭意図をうかがえるように、当時ののどかな田園風景を現在にそのまま伝える貴重な文化資産です。
池は当時の農業用の溜め池、曲水は岡山平野に網の目のように張り巡らされた灌漑用の農業用水、園内各所に設えられた巨石や曲水の石垣護岸や底樋、樋門、土橋、石橋にいたるまで、津田永忠たちが、領民の自立と暮らしの安定を願って心血を注いで築き培った農業土木技術のエッセンスがそのままに活かされています。
それはまた、吉備(あるいは東アジア)の悠久の稲作文化を語るに欠かせない典型的な農業原風景であるといっても過言ではないでしょう。
ただ単なる観賞用の庭園としてではなく、そこにこめられた作庭の精神や技、そして私たち米を主食とする東南アジアの民にとって稲作農業とは何か、その歴史にまで立ち至ってこの名園への理解を深めていただければ幸いです。
中央に見える田は、中国は周の時代の「一公九民」の収税法に倣った井田(せいでん)のミニチュアです。周りの八枚の田は私、真ん中一枚の田が公、一枚の公田を共同で耕し、その収穫のみ、全収穫量のちょうど一割を納税したと伝えられます。備前市には、ほぼ実物大の井田遺構が現存しています。(詳しくは井田遺構のページをご覧ください)
井田の奥に見えるのは茶畑で、少し苦みが強いようですが、いまも江戸時代の茶の味覚がそのままに味わえます。