友延新田井田跡
岡山藩主池田光政公が、寛文10年(1670)12月11日、津田永忠に命じ、中国周時代の地割租税制度とされる「井田法」を再現したものです。後楽園にミニチュアはありますが、ほぼ原寸大の井田遺構としては、おそらく、現存する世界唯一の遺構であろうと思われます。
儒学に基づく「仁政」の実現を最大のテーマとした光政公ですが、私たちは、三百数十年後の今日においてもなお、光政公の想い描いた農政の理想をこの「井田」に見ることができそうです。
原典は『孟子』だと言います。孟子といえば「孟母三遷」や「性善説」で有名ですが、孔子の死の約100年後に生まれ、前四世紀から三世紀にかけて活躍した人です。様々な比喩を引用しつつ諸侯を説き伏せるその三段論法の切れ味の鋭さは、いま読んでも実に痛快です。
では、「井田法」とはいったいどのような制度なのでしょうか。
光政公の思想や想い描いた理想の農政を理解するのにとても有用だと思われますので、少し長くなりますが、『孟子』の中から関係ある章句を引用し、ご紹介したいと思います。
恒産無くして恒心無し
『孟子』の中の「藤文公(とうぶんこう)章句の上」に、
「藤の文公、孟子に国を為(おさめる)ことを問う。孟子答えて曰く、民事を疎かになさってはなりません。詩にこんな一節があります。爾(なんじ)昼は茅を刈れ、夜は索(さく:なわ)を綯(な)え、すみやかに其れらを屋に乗せ(小屋を作り)、それ始めて百穀を播かん、(これ)民を為(おさめる)るの道なり。」
「恒産(こうさん:一定の生業、決まった仕事)有る者は恒心(こうしん:一定普遍の道徳心)有り、恒産無き者は恒心無し。いやしくも恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)を為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、然る後に従(ひ)きて之を刑するは、是(これ)民に罔(あみ:網にかけて根こそぎ捕える)する也。」
「いずくんぞ仁の人の位に在りて、民を罔して為むべけんや。是の故に賢君は必ず恭儉(きょうけん:つつしみ深いこと)にして下を礼し、民を取るに制あり。」
「陽虎に曰く、富を為せば仁ならず、仁を為せば富まず。夏后氏は五十(畝)にして貢(夏の時代の租税法)、殷人は七十(畝)にして助(じょ:殷代の租税法)、周人は百畝(ほ)にして徹(てつ:周代の租税法)。其の実(実際の税率)は皆十に一(の割合。つまり一公九民の税制)なり。徹は(徹底の)徹なり、助は藉(しゃ:寛大の意)なり。」
「龍子に曰く、地を治めるに助(殷代の租税)において善きは莫く、貢(夏代の租税法)において善からずは莫く、貢は數歳の中を校(平均)して以て常と為す。楽歳(豊作の年)には粒米狼戻(りゅうまいろうれい:米粒がみだれ散らばる稔りの多い様子)し、多く之を取るも虐を為さずに、則ち之を少なく取る。凶年には其の田に糞しても(肥えを撒いても)足らず、則ち必ず盈(えい:あふれるほど過酷に税)を取る。いずくんぞ民の父母と為りて、民を盻盻(けいけい:酷使する)然として使うか。将に終歳勤動しても其の父母を養い得ず、また貸すと称して之を益すれば、老(人)や稚(児)を溝壑(こうえい:谷間、困難な境遇に)に転がさしむ。いずくにか其の民の父母と為る在る也か。」
「それ世祿(祿を世襲する)は、藤では固より之を行なえり。詩に云う。雨、我が公田に雨降り、遂に我が私田に及べと。惟(おも)うに助(殷代の租税法)には公田(の制)有りと為す。これに依りて之を観れば、周と雖もまた助なり。庠序学校(地方の学校、閑谷学問所と同様の「郷学」の意)を設けて以て之を教える。庠(しょう)は養なり、校は教えなり、序は射なり。殷に序と曰い、周に庠と曰い、学は則ち三代これを共にする。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上において明らかなれば、小民下に於いて親しむ。王者起こるあらば、必ず法を取りて来たらん。是れ王者の師と為すなり。」
「詩に云う、周は旧邦といえども、其の命は惟(おも)うに新しく、文王、之を謂うなり。子、力めて之を行えば、また以て子の国を新たにせん、と。篳戰を使わして井地を問わしむ。孟子曰く、子の君、將に仁政を行なわんとす。選択して子を使わす。子、必ず之を勉めよ。将に仁政を行えり。」
「それ仁政は必ず経界(けいかい)より始む。經界、正しからざれば、井の地は鈞(ひと)しからず。穀祿平(等)ならず。是の故に暴君汚吏は必ず其の經界を慢(あなど)る。經界既に正しければ、田を分かち祿を制すること、座して定まるなり。」
「それ藤の壤地は褊小なれども、将に君子と為さんとするか、将に野人と為さんとするか、君子無くば野人を治めること莫く、野人無ければ君子を養う莫し。野に九一を請けて助(の税制)とし、国中は十一にして自ら賦せしめん。卿以下は必ず圭田有り。」
「圭田は五十畝、餘夫は二十五畝、死して徙るまで郷を出ずるなく、郷田井を同じくし、出入相友とし、守望相助け、疾病(しっぺい)相扶持せば、すなわち百姓親睦せん。」
「方一里をして井とし、井は九百畝(ほ)、其の中を公田と為し、八家皆、百畝を私とし、同じゅうして公田を養う。公の事おわれば、然る後、敢えて私の事を治めん。野人と別なる所以なり。これ其の大略なり。もし夫れ之を潤沢するは、則ち君と子に有るかな。」
とあります。
おそらく永忠は、池田家お抱えの儒学者(たとえば小原大丈軒)などの屋敷を何度も何度も訪ね、これらの章句の意味するところを問い、井田法とはなんぞや、その地割はどうすれば良いのか、また光政公が井田の地割を命ずることによって何を永忠に教えようとしたのか、その意とするところを一生懸命に学習し、汲み取ろうとしたたものと思われます。
もう一つ『孟子』の中、「梁恵王章句」に次のような一章があります。少しくどくなりますが、これも併せてぜひお読みください。
五十歩百歩
「梁の恵王曰く、寡人(かじん:私)の國においてや、ただひたすら心を盡くすかな。河内(かだい)凶なれば、すなわち其の民を河東に移し、その粟(ぞく)を河内に移す。河東が凶なればまた然り。隣国の政(まつりごと)を察するに、寡人のごとく心を用いる者なし。(しかし)鄰国の民少なからず。寡人の民多からず。何ぞや。」
「孟子こたえて曰く。王、戦(いくさ)を好む。戦を以て喩えとするを講う。填然としてこれを鼓し、兵、刃を既に接する。甲(かぶと)を棄て兵を曳きいて走り、或は百歩後して止まり、或は五十歩後して止まり、五十歩を以て百歩を笑わば、すなわち如何。曰く、不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走(に)げるなり。曰く、王これを知るが如く、則ち隣国より民の多きを望む無きなり。」
「農の時を違わざれば、穀、食に勝るべけんや。数罟(そくこ:目の細かい網を)大池に入れざれば、魚鼈(ぎょべつ)、食に勝るべけんや。斧斤(ふきん:斧やナタ)時を以て山林に入れれば、材木、用いるに勝るべけんや。穀と魚鼈に、食を勝るべからず。材木に、用を勝るべからず。これ民をして生を養い死を喪して恨みなからしむなり。生を養い死を喪して恨み無ければ、王道は之に始まるなり。」
「五畝の宅、之に樹する(木を植える)に桑を以てすれば、五十の者、帛(はく:きぬ)の衣を以て可なるかな。鶏豚狗□(けいとうこうてい:豚は子豚、□は大豚)の畜(飼育)、其の時を失せざれば、七十の者、肉を食とするを以て可なるかな。百畝(ほ)の田、其の時を奪うこと勿ければ、数口の家、餓え無きを以て可なるかな。」
「痒序(しょうじょ:農村の手習所、郷学)の教を謹み、孝梯の義を以て之を申すれば、頒白(はんぱく:白髪まじり)の者、道路に於いて載を負わずかな。七十の者、帛を衣し肉を食し、黎民餓えず寒からず。然るべくして王に成らざる者、未だこれ有らざるなり。」
とあります。
為政者として国を治め、人心を掌握し善政を敷こうとすれば「仁政」を実施する以外に無い、と孟子は説きます。
しかし王(諸侯)たちは、単なる精神論としてではなく、その具体策はあるのかと孟子に問います。
孟子は、有名な「恒産無くして恒心無し」との喩えを引きながら、民を「恒産無くして恒心無し」の状況に陥れ、罪を犯さざるを得ないようにしておいて、それをまるで大きな網をもって掬うように罰するのは政治の責任以外の何ものでもないと指摘します。
まるでどこかの国の現在の世相や政治を、痛切に皮肉批判しているように聞こえるではありませんか。
そして、そうした状況に民を陥れないようにするためには、少なくとも数人の家族を養うに足る百畝の広さの田と、養蚕して家族が着る衣服の布を織るために必要な桑の木が植えられ、鶏や豚などの家畜を飼育できるだけの広さを持った五畝の宅地、すなわち人々が恒心を持ちうるに足る恒産を持てるようにすることが何より大切である。そうすれば、少なくとも白髪まじりの人に重い荷物を背負わせるような荷役を課すこともなく、70の年寄も、時には肉を食べ帛を着れるようになるし、飢えや寒さに苦しむことも無くなる。
そして読み書きを習わせ、孝行や礼の大切さを教える手習所や学問所を農村にいたるまで整備すべきである。
あわせて耕地は一里四方九百畝の田を、誰が見ても納得できるように正確かつ公平にきっちり九枚に割り、その真中を公田とし、みんなで共同で耕作させ、その収穫を税として納めさせる。そして周りの八枚の田を八家の私田として耕作させ、公ということの概念やその実際的な意味、さらには農民の自治、相互扶助の精神の醸成に務めれば、必ずや国は富み、人心は為政者になつき天下の統一もまた夢ではない、と説きます。
すなわちこれが、いわゆる「井田の法」の大略だが、これを国情に合わせてどう脚色するかは、あなたの国の主と担当者である君しだいだ、と突き放しています。
永忠も藤の国の篳戰という人と同様、光政公から「詳細については自分で考えよ」と突き放されたのでしょう。
寛文10年の12月21日に命じられ、翌寛文11年の正月14日から地割りを始め、ほどなく成就させ、「公私の田、盧舎等を分かち古法を以て租税を納める」こととしたようです。
では寛文11年、津田永忠によって地割りされた井田の姿はどのようなものであったのでしょうか。その詳細は、地元の有吉弥一右衛門という人の書き残した私的な記録に窺い知る事ができます。
有吉弥一右衛門の記した「井田立法」には、
「九百畝を以て一井と為す。周尺三百間四方なり。中間を以て公田と為し、以下八面を私田と為す。八家各百畝を受け、公田の内二十畝を盧舎と為し、八家各二畝半を得る。公田八十畝なり。八家助けて公田を耕すなり。」
「一井九百畝、本朝の十町四反七畝に当るなり。但し七十間一尺五寸四方なり。歩数三萬千四百十坪有余。右周尺六尺四方を以て一歩と為す。本朝曲尺(かねじゃく)六尺五寸を以て為す歩と坪に同じ。周尺一尺は曲尺六寸四分(約19.4cm)なり。(しかし計算がどうしても合いません)」
「十歩四方を一畝と為す。周の百歩を一畝餘となす。これに倣うに周尺六尺四方は当曲尺の三尺八寸四分なり。曲尺六尺五寸四方は当(周か?)尺一丈一分五厘六毛なり。十畝四方を以て百畝と為す。周の百畝四方は周の萬歩、本朝の一町六畝十歩に当たる。但し五十九間五寸四方なり。坪数三千四百九十坪、但し本朝一坪米五合の積量ににして高17石四斗五升あり。これ農夫一家の取る所」
〈私田百畝の図〉(周尺六尺四方を一畝と為す)
本朝の九反三畝二厘二(但し長さ五十九間五寸、横四十七間一尺七寸。坪数二千七百九十二坪餘、積量の米十三石九斗六升、これ公田納米)
〈地割見井田の図〉
周尺横二畝長さ二十畝、歩数二千歩。本町の二反三畝八歩なり(但し長さ五十一間五寸、横十一間二尺五歩。坪数六百九十八坪有餘。積量の米三石四斗九升。これ公田百畝の内、盧舎の減じ)
〈盧舎一家の図〉
二畝半周尺長さ二十五歩横十歩に数え二百五十歩(本朝の二畝二十七坪なり。但し横五間半二尺六寸五分、縦十四間五尺なり。これ井田の盧舎なり。八家各二畝半を得る)
一積量の井田米高百五十三石五斗九升、内公田十三石九斗六升、私田百三十九石六斗。これ上井総額なり。
とあります。
ちなみに、古代から随代まで、中国では六尺を一歩、三百歩(一千八百尺)を一里としたようで、周尺の長さについても、いろいろな説があるようですが、私の手持ちの「大修館新漢和辞典」には、周尺の一尺は22.5cm(七寸五分)とあります。しかし、岡山藩の和意谷墓所造営の際は、和尺の六寸五分(約19.7cm)、井田では六寸四分(約19.4cm)を周尺一尺としたようです。したがって孟子の言う井田法での一里(1800尺、300歩)は、穂浪の井田では和尺換算で1152尺(192間、3町2間)、メートル法に換算すると約349mということになります。
次に孟子のいう方一里、すなわち一井、九百畝(周代の畝は百方歩)を和尺で面積換算してみますと、一二町一反八畝一五歩(約12.2ha)になります。これを九枚の田に分け、真中の一枚を公田とし、残りの八枚を八家で一枚づづ分け、それぞれを私田としたわけですが、一家あたりの所有する田の面積は、一町三反ほどになりますでしょうか。ただし、穂浪の井田で使った検地竿は六尺五寸であったようですので、有吉弥一右衛門の記録はきわめて正確なものであると見て良さそうです。
実際、寛文十一年からは「井田法」の通りの収税が行われたようですが、綱政が藩主を継いだ後の延宝三年(1675)からは、逼迫する藩の財政事情からか通常の年貢地となっています(ただし、元禄元年(1688)に完成した下井田は、宝永七年(1710)に閑谷学校田となっています)。
明治9年(1876)、池田光政の遺徳をしのんだ村人により石碑(撰文山田方谷)が建立されています。碑の側には井田の一万分の一の模型が作成されています
孟子の説いた「井田法」が今の時代にそぐわないことはもちろん明らかです。もちろん光政公の時代でもそうであったでしょう。古今の歴史を含めて学問知識に明るい光政公がそのことを知らない筈はありません。
光政公は、井田の地割を通じて、津田永忠や領民にもっと本質的に大切な「公の精神」や「相互扶助」、『大学』の三綱領である「明明徳・親民・止至善」や「格物到知」の精神を、それこそ「知行合一」、すなわち「学びかつ実践」することを通じて教えようとしたのではなかったでしょうか。
この国の行く末や地球社会の未来を真剣に考える上で、孔子や孟子、そして光政の説こうとしたところを、今日の時代に即して改めて見直し評価することも、また大切なことなのかもしれません。
井田の中央には山田方谷撰文の「井田記念碑」と、井田の一万分の一のミニチュアが地元の人たちの手で作られています。また井田ミニチュアの縁石には、寛文八年(1688)に河内屋治兵衛が築いた石造樋門の部材が使用されています。
●交通アクセス
JR赤穂線「伊里駅」下車すぐ。
備前バス「井田」バス停すぐ。
儒学に基づく「仁政」の実現を最大のテーマとした光政公ですが、私たちは、三百数十年後の今日においてもなお、光政公の想い描いた農政の理想をこの「井田」に見ることができそうです。
原典は『孟子』だと言います。孟子といえば「孟母三遷」や「性善説」で有名ですが、孔子の死の約100年後に生まれ、前四世紀から三世紀にかけて活躍した人です。様々な比喩を引用しつつ諸侯を説き伏せるその三段論法の切れ味の鋭さは、いま読んでも実に痛快です。
では、「井田法」とはいったいどのような制度なのでしょうか。
光政公の思想や想い描いた理想の農政を理解するのにとても有用だと思われますので、少し長くなりますが、『孟子』の中から関係ある章句を引用し、ご紹介したいと思います。
恒産無くして恒心無し
『孟子』の中の「藤文公(とうぶんこう)章句の上」に、
「藤の文公、孟子に国を為(おさめる)ことを問う。孟子答えて曰く、民事を疎かになさってはなりません。詩にこんな一節があります。爾(なんじ)昼は茅を刈れ、夜は索(さく:なわ)を綯(な)え、すみやかに其れらを屋に乗せ(小屋を作り)、それ始めて百穀を播かん、(これ)民を為(おさめる)るの道なり。」
「恒産(こうさん:一定の生業、決まった仕事)有る者は恒心(こうしん:一定普遍の道徳心)有り、恒産無き者は恒心無し。いやしくも恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)を為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、然る後に従(ひ)きて之を刑するは、是(これ)民に罔(あみ:網にかけて根こそぎ捕える)する也。」
「いずくんぞ仁の人の位に在りて、民を罔して為むべけんや。是の故に賢君は必ず恭儉(きょうけん:つつしみ深いこと)にして下を礼し、民を取るに制あり。」
「陽虎に曰く、富を為せば仁ならず、仁を為せば富まず。夏后氏は五十(畝)にして貢(夏の時代の租税法)、殷人は七十(畝)にして助(じょ:殷代の租税法)、周人は百畝(ほ)にして徹(てつ:周代の租税法)。其の実(実際の税率)は皆十に一(の割合。つまり一公九民の税制)なり。徹は(徹底の)徹なり、助は藉(しゃ:寛大の意)なり。」
「龍子に曰く、地を治めるに助(殷代の租税)において善きは莫く、貢(夏代の租税法)において善からずは莫く、貢は數歳の中を校(平均)して以て常と為す。楽歳(豊作の年)には粒米狼戻(りゅうまいろうれい:米粒がみだれ散らばる稔りの多い様子)し、多く之を取るも虐を為さずに、則ち之を少なく取る。凶年には其の田に糞しても(肥えを撒いても)足らず、則ち必ず盈(えい:あふれるほど過酷に税)を取る。いずくんぞ民の父母と為りて、民を盻盻(けいけい:酷使する)然として使うか。将に終歳勤動しても其の父母を養い得ず、また貸すと称して之を益すれば、老(人)や稚(児)を溝壑(こうえい:谷間、困難な境遇に)に転がさしむ。いずくにか其の民の父母と為る在る也か。」
「それ世祿(祿を世襲する)は、藤では固より之を行なえり。詩に云う。雨、我が公田に雨降り、遂に我が私田に及べと。惟(おも)うに助(殷代の租税法)には公田(の制)有りと為す。これに依りて之を観れば、周と雖もまた助なり。庠序学校(地方の学校、閑谷学問所と同様の「郷学」の意)を設けて以て之を教える。庠(しょう)は養なり、校は教えなり、序は射なり。殷に序と曰い、周に庠と曰い、学は則ち三代これを共にする。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上において明らかなれば、小民下に於いて親しむ。王者起こるあらば、必ず法を取りて来たらん。是れ王者の師と為すなり。」
「詩に云う、周は旧邦といえども、其の命は惟(おも)うに新しく、文王、之を謂うなり。子、力めて之を行えば、また以て子の国を新たにせん、と。篳戰を使わして井地を問わしむ。孟子曰く、子の君、將に仁政を行なわんとす。選択して子を使わす。子、必ず之を勉めよ。将に仁政を行えり。」
「それ仁政は必ず経界(けいかい)より始む。經界、正しからざれば、井の地は鈞(ひと)しからず。穀祿平(等)ならず。是の故に暴君汚吏は必ず其の經界を慢(あなど)る。經界既に正しければ、田を分かち祿を制すること、座して定まるなり。」
「それ藤の壤地は褊小なれども、将に君子と為さんとするか、将に野人と為さんとするか、君子無くば野人を治めること莫く、野人無ければ君子を養う莫し。野に九一を請けて助(の税制)とし、国中は十一にして自ら賦せしめん。卿以下は必ず圭田有り。」
「圭田は五十畝、餘夫は二十五畝、死して徙るまで郷を出ずるなく、郷田井を同じくし、出入相友とし、守望相助け、疾病(しっぺい)相扶持せば、すなわち百姓親睦せん。」
「方一里をして井とし、井は九百畝(ほ)、其の中を公田と為し、八家皆、百畝を私とし、同じゅうして公田を養う。公の事おわれば、然る後、敢えて私の事を治めん。野人と別なる所以なり。これ其の大略なり。もし夫れ之を潤沢するは、則ち君と子に有るかな。」
とあります。
おそらく永忠は、池田家お抱えの儒学者(たとえば小原大丈軒)などの屋敷を何度も何度も訪ね、これらの章句の意味するところを問い、井田法とはなんぞや、その地割はどうすれば良いのか、また光政公が井田の地割を命ずることによって何を永忠に教えようとしたのか、その意とするところを一生懸命に学習し、汲み取ろうとしたたものと思われます。
もう一つ『孟子』の中、「梁恵王章句」に次のような一章があります。少しくどくなりますが、これも併せてぜひお読みください。
五十歩百歩
「梁の恵王曰く、寡人(かじん:私)の國においてや、ただひたすら心を盡くすかな。河内(かだい)凶なれば、すなわち其の民を河東に移し、その粟(ぞく)を河内に移す。河東が凶なればまた然り。隣国の政(まつりごと)を察するに、寡人のごとく心を用いる者なし。(しかし)鄰国の民少なからず。寡人の民多からず。何ぞや。」
「孟子こたえて曰く。王、戦(いくさ)を好む。戦を以て喩えとするを講う。填然としてこれを鼓し、兵、刃を既に接する。甲(かぶと)を棄て兵を曳きいて走り、或は百歩後して止まり、或は五十歩後して止まり、五十歩を以て百歩を笑わば、すなわち如何。曰く、不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走(に)げるなり。曰く、王これを知るが如く、則ち隣国より民の多きを望む無きなり。」
「農の時を違わざれば、穀、食に勝るべけんや。数罟(そくこ:目の細かい網を)大池に入れざれば、魚鼈(ぎょべつ)、食に勝るべけんや。斧斤(ふきん:斧やナタ)時を以て山林に入れれば、材木、用いるに勝るべけんや。穀と魚鼈に、食を勝るべからず。材木に、用を勝るべからず。これ民をして生を養い死を喪して恨みなからしむなり。生を養い死を喪して恨み無ければ、王道は之に始まるなり。」
「五畝の宅、之に樹する(木を植える)に桑を以てすれば、五十の者、帛(はく:きぬ)の衣を以て可なるかな。鶏豚狗□(けいとうこうてい:豚は子豚、□は大豚)の畜(飼育)、其の時を失せざれば、七十の者、肉を食とするを以て可なるかな。百畝(ほ)の田、其の時を奪うこと勿ければ、数口の家、餓え無きを以て可なるかな。」
「痒序(しょうじょ:農村の手習所、郷学)の教を謹み、孝梯の義を以て之を申すれば、頒白(はんぱく:白髪まじり)の者、道路に於いて載を負わずかな。七十の者、帛を衣し肉を食し、黎民餓えず寒からず。然るべくして王に成らざる者、未だこれ有らざるなり。」
とあります。
為政者として国を治め、人心を掌握し善政を敷こうとすれば「仁政」を実施する以外に無い、と孟子は説きます。
しかし王(諸侯)たちは、単なる精神論としてではなく、その具体策はあるのかと孟子に問います。
孟子は、有名な「恒産無くして恒心無し」との喩えを引きながら、民を「恒産無くして恒心無し」の状況に陥れ、罪を犯さざるを得ないようにしておいて、それをまるで大きな網をもって掬うように罰するのは政治の責任以外の何ものでもないと指摘します。
まるでどこかの国の現在の世相や政治を、痛切に皮肉批判しているように聞こえるではありませんか。
そして、そうした状況に民を陥れないようにするためには、少なくとも数人の家族を養うに足る百畝の広さの田と、養蚕して家族が着る衣服の布を織るために必要な桑の木が植えられ、鶏や豚などの家畜を飼育できるだけの広さを持った五畝の宅地、すなわち人々が恒心を持ちうるに足る恒産を持てるようにすることが何より大切である。そうすれば、少なくとも白髪まじりの人に重い荷物を背負わせるような荷役を課すこともなく、70の年寄も、時には肉を食べ帛を着れるようになるし、飢えや寒さに苦しむことも無くなる。
そして読み書きを習わせ、孝行や礼の大切さを教える手習所や学問所を農村にいたるまで整備すべきである。
あわせて耕地は一里四方九百畝の田を、誰が見ても納得できるように正確かつ公平にきっちり九枚に割り、その真中を公田とし、みんなで共同で耕作させ、その収穫を税として納めさせる。そして周りの八枚の田を八家の私田として耕作させ、公ということの概念やその実際的な意味、さらには農民の自治、相互扶助の精神の醸成に務めれば、必ずや国は富み、人心は為政者になつき天下の統一もまた夢ではない、と説きます。
すなわちこれが、いわゆる「井田の法」の大略だが、これを国情に合わせてどう脚色するかは、あなたの国の主と担当者である君しだいだ、と突き放しています。
永忠も藤の国の篳戰という人と同様、光政公から「詳細については自分で考えよ」と突き放されたのでしょう。
寛文10年の12月21日に命じられ、翌寛文11年の正月14日から地割りを始め、ほどなく成就させ、「公私の田、盧舎等を分かち古法を以て租税を納める」こととしたようです。
では寛文11年、津田永忠によって地割りされた井田の姿はどのようなものであったのでしょうか。その詳細は、地元の有吉弥一右衛門という人の書き残した私的な記録に窺い知る事ができます。
有吉弥一右衛門の記した「井田立法」には、
「九百畝を以て一井と為す。周尺三百間四方なり。中間を以て公田と為し、以下八面を私田と為す。八家各百畝を受け、公田の内二十畝を盧舎と為し、八家各二畝半を得る。公田八十畝なり。八家助けて公田を耕すなり。」
「一井九百畝、本朝の十町四反七畝に当るなり。但し七十間一尺五寸四方なり。歩数三萬千四百十坪有余。右周尺六尺四方を以て一歩と為す。本朝曲尺(かねじゃく)六尺五寸を以て為す歩と坪に同じ。周尺一尺は曲尺六寸四分(約19.4cm)なり。(しかし計算がどうしても合いません)」
「十歩四方を一畝と為す。周の百歩を一畝餘となす。これに倣うに周尺六尺四方は当曲尺の三尺八寸四分なり。曲尺六尺五寸四方は当(周か?)尺一丈一分五厘六毛なり。十畝四方を以て百畝と為す。周の百畝四方は周の萬歩、本朝の一町六畝十歩に当たる。但し五十九間五寸四方なり。坪数三千四百九十坪、但し本朝一坪米五合の積量ににして高17石四斗五升あり。これ農夫一家の取る所」
〈私田百畝の図〉(周尺六尺四方を一畝と為す)
本朝の九反三畝二厘二(但し長さ五十九間五寸、横四十七間一尺七寸。坪数二千七百九十二坪餘、積量の米十三石九斗六升、これ公田納米)
〈地割見井田の図〉
周尺横二畝長さ二十畝、歩数二千歩。本町の二反三畝八歩なり(但し長さ五十一間五寸、横十一間二尺五歩。坪数六百九十八坪有餘。積量の米三石四斗九升。これ公田百畝の内、盧舎の減じ)
〈盧舎一家の図〉
二畝半周尺長さ二十五歩横十歩に数え二百五十歩(本朝の二畝二十七坪なり。但し横五間半二尺六寸五分、縦十四間五尺なり。これ井田の盧舎なり。八家各二畝半を得る)
一積量の井田米高百五十三石五斗九升、内公田十三石九斗六升、私田百三十九石六斗。これ上井総額なり。
とあります。
ちなみに、古代から随代まで、中国では六尺を一歩、三百歩(一千八百尺)を一里としたようで、周尺の長さについても、いろいろな説があるようですが、私の手持ちの「大修館新漢和辞典」には、周尺の一尺は22.5cm(七寸五分)とあります。しかし、岡山藩の和意谷墓所造営の際は、和尺の六寸五分(約19.7cm)、井田では六寸四分(約19.4cm)を周尺一尺としたようです。したがって孟子の言う井田法での一里(1800尺、300歩)は、穂浪の井田では和尺換算で1152尺(192間、3町2間)、メートル法に換算すると約349mということになります。
次に孟子のいう方一里、すなわち一井、九百畝(周代の畝は百方歩)を和尺で面積換算してみますと、一二町一反八畝一五歩(約12.2ha)になります。これを九枚の田に分け、真中の一枚を公田とし、残りの八枚を八家で一枚づづ分け、それぞれを私田としたわけですが、一家あたりの所有する田の面積は、一町三反ほどになりますでしょうか。ただし、穂浪の井田で使った検地竿は六尺五寸であったようですので、有吉弥一右衛門の記録はきわめて正確なものであると見て良さそうです。
実際、寛文十一年からは「井田法」の通りの収税が行われたようですが、綱政が藩主を継いだ後の延宝三年(1675)からは、逼迫する藩の財政事情からか通常の年貢地となっています(ただし、元禄元年(1688)に完成した下井田は、宝永七年(1710)に閑谷学校田となっています)。
明治9年(1876)、池田光政の遺徳をしのんだ村人により石碑(撰文山田方谷)が建立されています。碑の側には井田の一万分の一の模型が作成されています
孟子の説いた「井田法」が今の時代にそぐわないことはもちろん明らかです。もちろん光政公の時代でもそうであったでしょう。古今の歴史を含めて学問知識に明るい光政公がそのことを知らない筈はありません。
光政公は、井田の地割を通じて、津田永忠や領民にもっと本質的に大切な「公の精神」や「相互扶助」、『大学』の三綱領である「明明徳・親民・止至善」や「格物到知」の精神を、それこそ「知行合一」、すなわち「学びかつ実践」することを通じて教えようとしたのではなかったでしょうか。
この国の行く末や地球社会の未来を真剣に考える上で、孔子や孟子、そして光政の説こうとしたところを、今日の時代に即して改めて見直し評価することも、また大切なことなのかもしれません。
井田の中央には山田方谷撰文の「井田記念碑」と、井田の一万分の一のミニチュアが地元の人たちの手で作られています。また井田ミニチュアの縁石には、寛文八年(1688)に河内屋治兵衛が築いた石造樋門の部材が使用されています。
●交通アクセス
JR赤穂線「伊里駅」下車すぐ。
備前バス「井田」バス停すぐ。