岡山藩郡代津田永忠の事績を、岡山世界遺産に !

=岡山世界遺産登録を目指して=

地域開発事業

倉安川の開鑿と上道郡倉田新田の開発
大用水の開鑿を伴った邑久郡幸島新田の開発
三番用水などの開鑿を伴った上道郡沖新田の開発
田原井堰の築造を伴った磐梨郡の田原用水、和気郡の益原用水の開鑿
竹田・中島の荒手の築造を伴った上道郡百間川のなどの築造

文化事業

代表的大名庭園後楽園の築庭
藩主池田家の墓所である護国山曹源寺(正覚谷墓所は国指定史蹟)
閑谷学校(国指定史蹟)の講堂(国宝)・聖堂(国指定重要文化財)・芳烈祀(国指定重要文化財)・石塀・鶴鳴門(国指定重要文化財)など
備前一宮吉備津彦神社

旧岡山藩藩学

岡山藩主池田光政が、津田永忠と泉八右衛門(仲愛、熊沢蕃山の弟)の二人に命じて、主に藩士子弟の教育を目的に岡山城下の西中山下に開学した藩学校です。しかし、「農民の子弟で篤志の者へは名字帯剣を許し学費まで給付する」といった特典を設けて学ばせていますから、当初から庶民に開かれた学校を意図したことが窺えます。



この藩学校の以前に、光政はやはり永忠と泉仲愛の二人に命じて、寛文6年(1666)、岡山城内の石山に仮学館を開いています。寛文6年といえば、この年の5月、光政は領内の氏神をのぞいた淫祠(いんし)1万527社をことごとく破棄させ、寄宮(よせのみや)72社に集約することと、その翌寛文7年には、日蓮宗不受布施派を厳しく弾圧、同派の寺院313ヶ寺を整理、585人の僧侶の転宗、追放といった厳しい宗教弾圧を行っています。
岡山藩学校は、その整理された円乗院というお寺の旧地と家士の屋敷の敷地十七区を合わせた土地に建てられています。

光政の宗教者嫌いは、とにかく徹底していました。もしかしたらそれは、既成宗教や偶像崇拝を嫌っていた稀代の革命家織田信長譲りだったのかもしれません。怪しげな宗旨や祈祷で民を惑わす、そのことを飯の種にする。自らは戒律を守らず言行不一致の自堕落な生活に終始する宗教者は、光政の理想とする儒教的な価値観にもとづく国づくりにとって弊害以外の何物でもなかったのかもしれません。

しかし「寺子屋」の名が示すように、鎌倉・室町の時代から、地域の神社仏閣は庶民教育のほとんど唯一の機関であり場でありつづけました。大多数の庶民は、その質や内容はともかく僧侶や神主から読み書きを学び、日々の暮らしに欠かせない最低限の一般的な知識や教養もまた授けてもらっていたわけです。その神社仏閣を潰し、僧侶たちを還俗させれば、庶民に読み書きを教える指導者もいなくなり、場所もなくなってしまいます。

光政としては、それに代わる彼の信奉する儒教的な学問や教養、迷信や因襲にもとづかない科学的知識、合理的精神といったものを藩士の子弟や領民に教育・伝授するための機関を大至急整備し、指導者を養成しなければなりません。当時、儒学は幕府も奨励する最先端の学問・教養でした。寛文6年の城内石山への仮学校の開設と、寛文8年の領内諸郡123ヶ所の手習所の開所、そして寛文9年の藩学校の開設は、そうした既成宗教への弾圧と内裏一体の関係にあったといえそうです。というよりも、光政の理想とする国づくりへの宗教改革・教育改革そのものであったといっても過言ではないのでしょう。

そのことの是非はともかく、寛文8年4月には領内諸郡に123ヶ所の手習所への取立てを津田永忠と泉仲愛の二人に命じ、12月には、岡山西中山下の円乗院というお寺の旧地と家士の屋敷の敷地十七区を合わせて学校地とし、手狭になった仮学校に替わる藩学校校舎の新築を、やはり津田永忠と泉仲愛の二人に命じ着工させています。


(古写真はいずれも『池田光政公伝』より)

創建当時の藩学校は、南北112間半、東西61間半の敷地の、中央南から北に校門・泮池・講堂・中室・食堂が中心を揃えて直線的に並び、その東西両側に寮舎6棟、学房、客舎、奉行屋敷などがやはり南北に連なり、敷地の西には長さ100間の馬場が設けらるという下図のような施設構成とレイアウトでした。

落成なった寛文9年(1669)7月25日には、岡山藩を致仕した後、播州明石にいた熊沢蕃山を招聘して、開校式を挙行しています。当時、蕃山の学問は幕府に疎まれ、京都所司代から追放令が下されるという状況でした。しかし蕃山は当時、その名を全国に知られた大学者であり、わが国の治山・治水、環境・農業土木論の先駆者でもありました。
蕃山は、開学にあたって釈奠(せきてん)礼を司宰し、翌年6月まで岡山にとどまっています。
記録によると、この落成式に参会した生徒85人、職員来賓をあわせて総勢160人とあります。

授業は、専任の講師および授読師による「主として小学、四書、五経などの誦読と講習、かたわら武技を演習せしむ」といったものであったようです。
初期の定員は「小生161名、小侍者67名を極(きわめ)とす」とありますが、光政が亡くなり藩財政が逼迫した天和3年から元禄15年(1683〜1702)までの定員は「63名を極とす」に改められ、就学者数もしだいに減っていったようです。しかし文政・天保年間(1815〜1842)頃には、最大時には242名もの就学者を数える盛況ぶりだったことが記録から窺えます。


(『史跡・湯島聖堂』パンフレットより)

この種の学校としては、江戸幕府が将軍綱吉の時代の元禄3年(1690)神田湯島に開いた大成殿(聖堂、後の昌平坂学問所、現在の湯島聖堂)が有名ですが、岡山藩学校はこれに先がけること21年、全国の藩校の内で最も初期のものであるといえそうです。

戦災で建物はすべて焼失してしまい現存しませんが、前庭部の泮池とそこにかかる石の桁橋は当時のものです。
半円形の池の形は、中国古代の礼式「天子は円池、諸侯は泮池」に由来すると言われています。


旧岡山藩藩学(全景)


池に架かる石桁橋(南東から)