岡山の農業土木文化遺産群の特徴
岡山の遺産群の世界遺産に値する特徴や要素、PRポイントっていったい何だろうと改めて考えてみました(きわめて生真面目に)。
行政から文化庁に提出された提案内容とはかなり異なりますが、思いつくままに箇条書きしてみました。この運動の旗振りを演じた者の一人としての「思い」と、受け止めていただければ幸いです。
●岡山の農業土木・文化遺産群の特徴
1 岡山の農業土木遺産群は、東南アジアにおける数千年、あるいは一万年におよぶ稲作文化の歴史のその延長線上にあること。
2 岡山には、これらの遺産以外にも、稲作文化の伝来と発展の過程を示す種々の様相の発掘成果や、きわめて文化的価値の高い遺跡や遺構が多数現存していること。また、いまなお発掘や調査研究活動が精力的につづけられており、 新たな事実が明らかになりつつあること。
3 岡山は、古代から現代に至るまで、常に日本でも有数の農業(あるいは稲作)文化の先進地域でありつづけ、そこから生まれた数々の創意や工夫は、他地域へも広く伝播し少なからぬ影響を与えていること。
また、地域や地域住民の農業文化への意識や関心がきわめて高いこと。
4 そうした東南アジアにおける稲作文化の普遍的な系譜の上に、近世のある時期の岡山において、幾人かの傑出した歴史的人物の力によってきわめて理想的な形で稲作文明史上の一つの頂上ともいうべき文化状況がきわめられたこと。
今回提案の一連の遺産群は、その際に生まれた農業土木・文化遺産群であり、その人類史的な価値もまた高いであろうこと。
5 この稲作文化の頂上的な様相は、稲作文化を基盤としたアジア的な高い精神性・倫理性(孔子や孟子の説く儒教的な理想主義)のもとに実現されたものであること。
しかも、そうした儒教的な理想主義が、岡山ほどの大きな成果を見た例はあまり多くはないこと。
6 岡山における儒教的な理想主義と陽明学的な実践主義(これを私たちは「知行合一」の精神と称しています)は、教育や医療、福祉、文化、環境、景観、経済など、その後の岡山の人々の暮らしの様々な局面において、きわめて好ましい影響を及ぼし続け、平和で安定した地域社会の形成に大きく貢献し続けたこと。
7 こうしたアジア的な高い精神性と倫理性のもとに築かれた岡山の農業土木・文化遺産群の、その形成された経緯や事績を顕彰し、それを地域のかけがえの無い資産として永く大切に護り伝えつづけることを通じて、地域の将来にばかりではなく、地球規模での環境破壊や農業危機、深刻な食糧難に直面しつつある人類社会の未来に、具体的かつ実践的な対応策についての示唆や教訓を与えつづけることができるであろうこと
などなどです。
近世岡山において実現した東南アジア稲作文化の一つのクライマックス的な様相を、最もシンボリックな形で示しているのが津田永忠最晩年の仕事、沖新田の干拓開墾事業です。
沖新田、百間川河口水門の大正、もしくは昭和初期の勇姿
1,918ヘクタールという当時としては世界最大規模の干拓新田である沖新田は、児島湾北岸の河口の付き洲沖合に総延長12キロメートルにもおよぶ塩止め堤を築き、その内陸側に塩遊びや大水尾とよばれる巨大な遊水池と花崗岩製の巨大な排水水門を多数設け、稲づくりの障りとなる余水(悪水といわれます)を一気に海側に吐き出すという独創的な仕組みを開発する
ことによって実現しました。
ほぼ同時期にできたオランダの干拓地と日本の干拓地とでは、その構造や排水のシステムが大きく異なります。
津田永忠は、この沖新田の干拓に必要な事業費のほぼ半分に相当する銀5百貫という巨額な資金を、彼一人の印で、大阪の鴻池家や京都の両替商から調達しています。銀5百貫を現在の貨幣価値に換算するのはなかなか難しいことですが、たぶん50億から100億円ぐらい、あるいはそれ以上であったのかもしれません。
明治29年に後楽園内に建立された津田永忠の顕彰碑の撰文末尾には、
新田葱葱(そうそう:青々としたこと)、年として豊ならざるは無く
(中略)
この土地を宰する者、永くその功を思へ
と、刻まれています。
世界広しといえども、こんな男、そうざらにいるものではありません。
岡山の農業土木・文化遺産群の最大の「ウリ」は津田永忠という、このすばらしくスケールの大きな偉人、すなわち柴田一先生がおっしゃるところの歴史的人物の存在です。